詩篇22篇 1〜3節 「神に見捨てられた者」

【序論・タイトル】
 本日の聖書箇所として詩篇22編1〜3節を読んでいただきましたが、ユダヤ的なものの考え方では、聖書の箇所冒頭部分を引用すると、それがその聖書箇所の全体を引用したのと同じ意味を持つそうです。ですから、今日の聖書箇所として司会者に朗読していただいたのは1〜3節だけですが、今日の聖書宣教としては詩篇22篇全体から語らせていただきますことをあらかじめご了承ください。
 内容に入っていく前に、まずタイトル部分について触れさせていただきますが、詩篇22篇のタイトルは「指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌」というものです。詩篇のなかでタイトルに「指揮者のために」とあるのは、この22篇以外にも全部で55篇ありますが、このヘブル語の正確な意味はよく分かっていないようです。しかし、聖書の他の箇所で用いられているところから推測すると「監督」とか「合唱隊の指導者」というように理解できる表現のようです。また「暁の雌鹿の調べに合わせて」というのは「暁の雌鹿」という周知の曲があり、そのメロディーにそった節回しで歌われたものとして「調べに合わせて」と表現されているものだと言われています。このことに関しては、この「暁の雌鹿」意外にも「ゆりの花の調べに合わせて」とか「滅ぼすなの調べに合わせて」などのタイトルがありまして、いくつかの詩篇がそのように既存の曲の替え歌として歌われていたものだったようです。そして最後の「ダビデの賛歌」とあるのは、この詩篇がダビデによるものだという理解でタイトル部分にダビデの名前が登場するのは全部で73回あり、150篇ある詩篇のほぼ半数がダビデによるものとなります。
 これ以外にも多くの詩篇には様々なタイトルが付いていますが、実はこのタイトルはそれぞえの詩のオリジナルには存在していなかったもので、後の時代における加筆と考えられています。とはいえ、だからといって無視しても良いかというとそうでもありません。詩篇のタイトルはその詩篇を理解する上での助けとなることが多くあります。
 詩篇22篇の作者とされているダビデという人物を考えてみると、彼の生涯は波乱にとんだものでした。羊飼いとして生まれ育ちましたが、ゴリアテという大男をを石投げでやっつけたことから王室に招き入れられることになりました。しかしあまりにも回りから注目を集め、人気を得たことで当時の王「サウル」から妬まれ、いのちをねらわれるようになってしまったのです。その後ダビデは命からがら、かろうじてサウル王から逃げ出すことができましたが、その後もイスラエルの敵ペリシテ人との関係で緊張状態が続きます。イスラエルの王は自分のことを受け入れてくれないサウル王。だからといってイスラエル民族の敵であるところのペリシテ人と仲良くするわけにもいかないダビデだったのです。そして今日の詩篇22篇はそのような四面楚歌状態で、最も苦しいときに歌われた詩篇だと考えられます。

【前半:苦しみ】
 そのようなことを意識しつつ、ダビデによってうたわれた詩篇22篇を見てまいりますが、本日詩篇22篇全体を触れるとは言っても、時間の都合もありますので、くまなく全部の節を観察するのではなく、おおざっぱに全体をながめていきたいと思っております。
 まず1節ですが、ここでのダビデは神から見捨てられていると感じているのです。彼のうめきにも神は答えず、遠く離れて苦しみの中なにも助けの手を述べてくださらないことで、その理由が彼にはは理解できていません。しかも2節を見ると、「呼びます」「黙っていられません」と表現されていますが、彼は昼も夜も一日中神様に祈り続けているのです。しかしそれでも「あなたは、お答えになりません」とあるように、神様からの答えはないのです。しかし、だからといって神様を呪ったりするのではなく、3節に「けれども、あなたは聖であられる」との神様の聖さについて、疑問を挟むことなく誠実に告白しています。彼はユダヤ人、イスラエル民族です。イスラエル人にとって彼らがエジプトでの奴隷状態からの解放は民族にとっての最も大きな出来事でした。彼らが神様に信頼している根拠は、その出エジプトの出来事によるところが大きいのです。そのことが4節、5節で「私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」とあることです。しかし今回に限っていうならば、彼は神様からの助けを得ていないのです。7節では彼の敵が彼をあざけっていますし、8節に至っては彼の敵が神様の名前まで出して、神様から助け出してもらったらよいだろうと、神様をまでも馬鹿にしているのです。それでも彼は神様に対して信頼し続けます。彼は自分の敵のことをいくつかの動物に例えています。12節では「雄牛」13節では「ほえたける獅子」と表現していますが、これらはダビデの敵対者から受ける苦しみが、獣からおそわれているような状態であったことが表現されているものです。また16節ではその敵対者のことを「犬」と呼んでいることについて、旧約聖書においては「犬」というとあまり良い意味では用いられていません。列王記に何度か出てくる表現から見ると当時の犬と言えば野生のものが多かったようで、空腹な野生の犬は夜になると群をなして野山や市街地をうろつき、捨てられた物や死体を食いあさっていたとのことです。このようなことから、ユダヤ人にとって「犬」というと不潔な人や汚れた人を指して言うようになり、人を犬と呼ぶことははなはだしい侮辱を意味します。そしてこの16節の犬達はダビデの周りを取り巻き、手足を引き裂くという残酷な行為に至っています。そして18節に目を向けると、その犬達がダビデの着物を分け合い、くじ引きにしているというのです。聖書記者の死の近いことを知った敵達が彼の衣服をはぎ取るという、冷酷な態度を見ることができます。また15節によると彼の身体は水分を失い、上あごに舌がくっついてしまうほど口の中が乾ききっている状態だそうです。
 このような侮辱と苦しみの中、19節から21節前半まで、ダビデの神に対する祈りのことばが記されます。「主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。」というものですが、悲惨な状態におかれてもまだ彼は神様に対する信頼と期待を失ってはいないのです。

【因果応報にあらず】
 ここまでが前半で、ダビデは多くの苦しみを通ってきたということが分かりますが、その中で注目したいのは、ここまで、悔い改めとか、罪の告白がされていない事です。要するに自分は神から見放され苦しむようなことは何もしていないということでしょう。この詩篇の記者とされているダビデですが、晩年になって一つの大きな失敗をしたとはいえ、それ以前の彼に関する記述サムエル記を見るならば、彼にとっての否定的要素は見受けられません。彼がサウル王から殺されそうになっていたということに限ってみるなら、それは王からの妬みであり、問題があるとすれば、サウル王の方だけです。
 因果応報というものの考え方があります。これは「善い行いをすれば、感謝などの善い行いで返り、悪い行いをすれば、懲罰などの報いで返る」というもので、主に後者の「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多いです。そうなると、懲罰を受けているとすれば、それはその人の悪行故であるということになります。しかし、これが全く嘘だと言うことにはなりませんが、必ずしもすべての出来事がこの「因果応報」という言葉で説明できるかというとそうではありません。ダビデの生涯に関してそのことが言えます。サウル王からいのちを狙われ、ペリシテ人との戦いの最中にあった彼は決して彼に問題があったということではありませんでした。
 このような事を見るときに、私たちの苦しみについても、必ずしもそれがすべて自分の責任において受けた報いであるとは言えないのです。特に神の前に誠実に歩んでいたとしても災いのような出来事には遭遇するということが分かります。今日は詳しく触れませんがヨブ記もそのことがテーマとなっており、彼は神様から「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいない」との評価を受けている人物でした。しかし彼でさえも、子ども達を悲惨な事故で失い、財産もなくし、体中が悪性の腫物で満たされるという体験をしたのです。いつかこのヨブ記についても共に学んでみたいと思っておりますが、他にも聖書の中には特別自分自身には問題がなかったのに理不尽な体験をしている人物が何名か見受けられます。その中の一人としてこの詩篇22篇を書いたダビデが挙げられるというになるでしょう。

【後半:賛美】
 さて、このように悲惨な体験をし苦しみの中で神に助けを求めているダビデですが、この詩篇22篇は21節後半から内容ががらっと変わります。2節で「あなたはお答えになりません」とありましたが、21節の後半は「あなたは私に答えてくださいます」と語り、ここから、祈りに答えてくださる神様への感謝と賛美が繰り返し語られているのです。22〜26節の間に「賛美しましょう」「賛美せよ」と「賛美」という単語が4回も用いられているのです。
 驚くべきは、それまで神様との距離があまりにも離れてしまって、彼の叫びに神の答えがなかったと嘆いていたのに、24節には「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」と告白しているのです。これを今日の中心聖句とさせていただきましたが、彼が神が遠く離れていたと感じていたのはその通りでしょう。しかし、それでも実際には神様が遠く離れていたのではなく、御顔を隠すこともなく、彼の助けを求める叫びは、神様にしっかりと届いており、神様はその祈りを聞いてくださっていたのです。自分は神から見放されていたと感じていたダビデでしたが、実際はそうではなかったということが気がついたのでしょう。この時の体験からでしょうか、ダビデは第一歴代誌28章20節で我が子ソロモンに次のように言って励ましております。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」また、申命記31章6節にはモーセがイスラエル民族に対して次のように語っている記録があります。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」神様は決して、ご自分の選んだ民を見放すこと、見捨てることはしないのです。このような確信に立ってダビデは自分自身と共に歩んでくださっている神様への精一杯の賛美を捧げられたということなのでしょう。

【詩篇22篇におけるキリスト】
 以上のような詩篇22篇でしたが、この詩篇は「メシア受難の詩」と呼ばれている詩篇でイエス様の受けられた苦しみの記事と多くの点で共通の内容が見られます。まず、1節の「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか」というは、イエス様が十字架につけられたときに、ご自身の口から直接語られたもので「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というアラム語の記述でマタイ27章46節やマルコ15章34節に書かれています。また7,8節にある敵に嘲られる姿は、十字架上に挙げられたイエス様に対して、民衆や指導者達が「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれたものなら、自分を救ってみろ」とか、イエス様と一緒に張り付けにされた犯罪人から「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言われている姿がルカの福音書23章に見られます。次に15節の渇ききっている状態についてはヨハネの福音書19章28節でイエス様が「わたしは渇く」とおっしゃっています。そして18節の着物がくじ引きにされることは、ヨハネの福音書19章23〜24節にその記録があります。
 しかも、この詩篇22篇には罪の告白や悔い改めの表現がされていないということについても、それはイエス様に対してもそのまま適用されるべき内容です。なにしろイエス様の生涯は罪とは無関係で、何一つ罪は犯さなかったお方だからです。イエス様の場合、告白すべき罪はなく悔い改めようにも、悔い改めるべき事柄は一切ないお方です。
 イエス様が十字架上で詩篇22篇の1節を口にされたと、先ほど触れましたが、冒頭にもお話ししたようにイエス様が詩篇22篇1節を語られたのはユダヤ的な理解から言うと、この22篇全体を引用されたのと同じ事になるのです。当然イエス様は詩篇22篇がどのような内容であるのか全てご存じだったでしょう。イエス様の十字架上での苦しみは詩篇22篇の成就でありました。父なる神様から見捨てられた状態にイエス様がおかれたのです。イエス様が父なる神様のことを指して「わが神」と呼んでいるのは、この箇所一箇所のみです。それ以外は「父」もしくは「わたしの父」という表現です。要するに十字架上で詩篇22篇1節を引用されたときのイエス様は「わたしの父」という表現をすることができなかったのです。それは父なる神様を、ひとり子なるイエス様という関係が破壊されているということを意味します。まさに父なる神様から見捨てられた状態にイエス様がおかれていたということなのです。そして人々からののしりを受けました。自らの身体は渇ききり、兵士たちが自分の着物をくじでひいてわけ始めるのです。
 また最後の31節はヘブル語の語順によると「主のなされた」ということばが最後になりますが、これは「無し終えた」という意味のことばで、それはヨハネの福音書19章30節でイエス様が「完了した」ということばをおっしゃった事に関係があると見なすことができます。
 以上のことからイエス様の十字架上での苦しみはまさに、この詩篇22篇の前半部分の内容に基づいたものであったと見なすことができるものであります。この詩篇22篇に書かれている苦しみをイエス様が負ってくださったのです。しかし詩篇22篇は苦しみに対する嘆きだけで終わっているのではなく、後半部分が神様への感謝と賛美に満たされています。イエス様の十字架上の苦しみは、その後の復活によって神様の栄光が表され、神様への賛美と促されるものであります。

【私たちへの適用】
 私たちの人生においても、様々な出来事に遭遇します。ダビデが感じたように、神から見放されたと感じるような出来事にも遭遇することがあるかもしれません。しかしダビデがそうしたように、神様への叫びと願いを祈り続けることによって神は見放されたのではない事が明らかにされるときが来るのです。
 また、悲惨な状況におかれたとき自分の気持ちは誰も分かってくれないと思うこともあるでしょう。しかし他の誰でもないイエス様が、私たちの受けている苦しみを自らの身に負ってくださった方だったのです。そしてこの方が私たち共にいてくださっているのです。
 そして、問題の解決についてですが、神が自分の叫びと祈りに答えてくださるお方であることをダビデは知りました。イエス様が三日目によみがえったように、その時が必ずやってきます。神様は悩むものの悩みをさげすむお方ではないのです。それは神様がひとり子なるイエス様を私たちの為に十字架に架けられたという事実に基づく真理です。

【聖餐式】
 本日、この後聖餐式を執り行います。それはイエス・キリストの十字架の犠牲を私たちがもう一度覚えるために行われるものです。それがどんなに悲惨な状態だったのか、またどんなに大きな犠牲だったのか、また、イエス様がそれほどの苦しみを追わなくてはならなかった私たちの罪がどれほど大きなものであるのか、そして聖なる神様がどれほどの高い基準の聖さをもっておられるのか、しかしそれほどのお方が私たち一人一人に目を留め、救いの御手を述べ、私たちを見放すことなく、見捨てることなく、いつも共にいてくださるお方であることをもう一度確認し、詩篇22篇の後半にあるように感謝と賛美を持って主のみからだなるパンと、流された血潮である杯にあずかりましょう。