マタイの福音書 9章14〜17節 信仰者の新しい生き方
【序論】
先週、講壇交換で春日井聖書教会に行ってまいりました。豊明では早川先生が奉仕して下さいましたが、講壇交換は語るものにとっても新鮮な緊張感があります。また、聞く方にとっても新鮮だったのではないでしょうか。特に今、豊明での礼拝で私が奉仕するときにははマタイの福音書からの講解説教を続けてますので、他の箇所から神様についての主題説教を聞けたということもよかったと思います。
とはいえ、聖書を学ぶにあたって前後関係や文脈から話の流れに沿って確認していくというのは聖書理解に大変大きな助けになりますし、逆にそれ無しには間違った解釈、適用をしてしまいかねないこともあるため、またしばらくは豊明での聖書宣教はマタイの福音書を続けて学んで行こうと思っておりますので、ご了解下さい。
そして、今日は9章14節からになりますが、この出来事は先々週に学んだ取税人マタイの家での食事会でのやりとりになります。これはイエス様の弟子としての歩みを始めたマタイが喜びをもって、友人たちに食事を振る舞っていたということでしたが、この時の彼らの行動に疑問を感じている人たちがおりました。前回はパリサイ人、律法学者でしたが、今日の箇所では「ヨハネの弟子たち」が登場しています。本日は彼らの質問とそれに対するイエス様の答から「信仰者の新しい生き方」というテーマで、神様のみことばを学んでまいりたいと思っております。
【断食しない理由】
それでは今日の聖書箇所に目を向けてまいりますが、14節に次のようにあります。「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。『私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」ここで名前が登場する「ヨハネ」とあるのは、バプテスマのヨハネのことで、イエス様が活動される以前に宣教の働きをして、イエス様にバプテスマを授けた人物です。そして彼にも何名かの弟子たちがおり、ヨハネはイエス様のことについて、その弟子たちに次のように語っています。ヨハネの福音書3章30節で「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言っています。そしてこの時ヨハネの弟子だった人たちがイエス様のところに行っている事が記されていました。そして、そのヨハネの弟子が今日の箇所でイエス様に対して質問しているのが断食に関してであります。ヨハネやヨハネの弟子、パリサイ人たちは断食をしていたのに、イエス様やイエス様の弟子たちが断食をしていないことについて、その理由を尋ねているのです。
というのも、当時のユダヤ人は定期的に断食を行っておりました。宗教的に熱心な人は毎週2回、月曜日と木曜日に断食をしていたそうです。この起源は出エジプト記でモーセが神様から十戒を与えられた時40日間シナイ山に昇っていたのですが、その山を昇った日が木曜日で、戒めが書かれた板をもって山を下りてきたのが月曜日だったという「伝承」に基づくものだそうです。とはいえ、聖書にはこの事に関する曜日についての言及はありませんし、この日に断食するようにという勧めもありません。
聖書に書かれている定期的な断食としては、ゼカリヤ書8章19節には次のようにあります。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。」ということですが、これはイスラエルがバビロンとの戦争に負けたこととの関係で、歴史的な出来事を覚えて悲しみを思い起こす意味で断食をしていたということです。それがこの個所ではそのような悲しみの地が楽しみや喜びの日に変わるということが預言的に語られているものですが、この年に4回の断食も聖書が「断食するように」と勧めているものではありませんでした。
唯一「定期的な断食」として聖書で勧められていると見ることができるのは「贖罪の日」についてです。これはレビ記23章27節に「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。」とあり、身を戒めるようにという勧めがあります。そしてこの日のことをエレミヤ書36章6節では「断食の日」と表現がされているのですが、この「身を戒める」という勧めを実践するためにユダヤ人達は断食を行っていたということです。このように、聖書の勧めとして「定期的な断食」が勧められているのは、この年に一回の「贖罪の日」だけであります。ちなみに今年は10月8日が「贖罪の日」で、この日ほとんどのユダヤ人は今でも断食を行っているようです。
そのような背景がある中で、どうやらイエス様と弟子たちは、断食を実践していなかったということのようですが、これは恐らくこの日が月曜日か木曜日だったのではないかと考えられます。宗教的に熱心な人たちは、この日を断食日として食事をとっていませんでしたが、このイエス様と弟子たちはそれを実践していなかったのです。ですから、ヨハネの弟子たちは「どうしてイエス様と弟子たちは、そのようなユダヤの習慣を実践していなかったのか?」ということを聞いているのがこの14節です。
それに対してイエス様の答えが15節で「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。」とおっしゃっています。ここで「花婿」が引き合いに出されているのは、当時のユダヤ教の理解では聖書で勧められている「贖罪の日」ですら、花婿はその規定を守らなくても律法違反とは見なされなかったということからだと考えられます。それは断食が悲しみの感情を共観するという意味合いがあるのに対して、結婚式のような喜びの席では、そのような感情はふさわしくないという事からのようです。そしてこの個所ではイエス様がご自分のことを指して「花婿」と表現しています。そして花婿に付き添っている友人たちも断食しないように、イエス様といっしょにいるイエス様の弟子たちにとっても、この時の断食はふさわしいものではなく、この時は喜ぶ時であるということです。そして冒頭にも触れたように、この食事会はマタイがイエス様の招きに応えたことをきっかけとして行われていた宴ですので、いうなれば婚礼のようなものだということができるでしょう。本来喜ぶべき時に断食して悲しみを表現するのは、イエス様を主として受け入れたものにとっては決してふさわしいものではないということになるでしょう。
【取り去られるとき】
しかし、15節の後半でイエス様は「しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。」と断食するときが来るとも付け加えています。花婿はイエス様を指しているといいましたが、そのイエス様が取り去られるときが来ると言うのです。その日にはイエス様の弟子が断食して悲しむのがふさわしい時ということでしょう。これが何を意味しているかというと、既に聖書をこの先まで読んでいらっしゃる方は皆さんご存知の通り、十字架のことを意味しているものだと見ることができるものです。ゲッセマネの園でイエス様は弟子たちの前から連れ去られ、たった一人でユダヤとローマの裁判を受け、むち打ちにあい、血を流し、からだが割かれ、そうしていのちを失われました。まさにイエス様の弟子たちが断食によって悲しむのがもっともふさわしい状況に置かれます。しかしこの悲しみはそれで終わるのではなく、三日目に墓を打ち破り復活されるので、悲しみも一次的なものであったことが聖書の記録によってしることができるものであります。
【着物のつぎ】
しかし、それはこのマタイ9章ではまだ未来のことであり、この段階では悲しむべき状況なのではなく、感謝や喜びを表現するのがふさわしい段階だということが言えるでしょう。このことをイエス様は16節で「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。」と例えておられます。使い古された着物とは繰り返し洗濯がされているものでしょう。最近の衣類は品質が良くなって、洗濯をしたくらいでサイズが変わることは希でしょうが、当時の衣類は仕立てたあと洗濯をすることで布が縮んで小さくなってしまうようなものでした。しかしその洗濯を繰り返すことで、もうそれ以上は縮まないという状態になってきます。そしてここで「古い着物」とはそのような衣類のことを言っているのであります。そしてその古い着物がほころびたり、穴が空いてしまった時に、当て布をして修繕する場合、もしも、新しい布切れをあてがうとどのようになるのか容易に想像つくことでしょう。これ以上縮まない衣類に、洗濯をすることで縮んでしまう布切れで継ぎをすると、継ぎをしたときには良さそうに見えても、その衣類を洗濯すると、その衣類は新しい布に引っ張られます。そして結局はその衣類にもっと大きな破れをもたらすことになるために、そのような対応はふさわしくないということです。
そして「古い着物」とは旧約聖書の戒めに基づくユダヤ教の教えであり、それに継ぎとして当てる「真新しい布切れ」とは、イエス様の教えに基づく新しい生き方を指していると捉えることができるでしょう。当時の律法学者、パリサイ人たちの律法理解のほころびを取り繕うためにイエス様の教えの一部分をあてがって対応しようとするというのは、ふさわしくないのです。そして、もしもそのような事をしてしまうと、新しい布切れが古い着物を余計に傷めるように、もっとひどい状態になってしまうということが言われている事であります。この場合するべき対応とは破れた古い着物に対するこだわりを捨てて、新しい着物に着替えるということふさわしいものであります。
【ぶどう酒と革袋】
そしてイエス様は続いて17節で「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」とぶどう酒と皮袋の関係でこの事を解説しています。こちらは十分に縮んだ着物とは逆に、古い皮袋はもう伸びきるだけ伸びきっているのです。しかし、新しいぶどう酒は発酵過程の途中にあり、まだその発酵が終わっていません。そして新しいぶどう酒が古い皮袋に入れられたら、そこから後も発酵が進んで、柔軟性を失った古い皮袋は破れてしまいます、皮袋が破れてしまうと当然、中のぶどう酒も流れ出てしまい、革袋も使い物にならなくなり、中のぶどう酒も流れ出てしまうのです。しかし新しい皮袋は柔軟性も高く丈夫で、その中に発酵途中の新しいぶどう酒が入れられても、簡単に破れてしまったりはしません。皮袋も破れることなく中のぶどう酒も美味しく熟成されるという事になるでしょう。
そしてこれが例えているのも「古い皮袋」がユダヤ人の教えというか、律法学者の指導する柔軟性を失った生活習慣であります。そして、その枠組みの中にイエス様の新しい教え、新しいぶどう酒を盛り込もうとしては、彼らの教え自体が崩壊するということをいっているのです。要するに新しいいのちは新しい生活様式を要求するようになるということで、それが新しいぶどう酒であるところのイエス様自信であり、それをお入れすることのできる新しい皮袋とは、今までのものとは違う新しいライフスタイルによるのでなければ、保つことが出来ないということを表しているものでしょう。そしてこのような表現からイエス・キリストのいのちであるところの「福音の生命力の強さ」を言い表しているとも読み取ることができることであります。
【適用・結論】
というのが今日の聖書箇所でイエス様が伝えたかった真理であるということができるものですが、この事は現代に生きる私たちとはどのような関係があるのでしょうか。本日の中心聖句は第2コリント5章17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とさせていただきました。ここでは「キリストのうちにある」ということが条件で、新しく造られたものだと言われています。これはイエス・キリストを神の子、救い主と信じ受け入れた人は全てという意味であります。そしてそのような人は、今日の聖書箇所でマタイの家での食事会で同席している人と同じ立場にいると見なすことができるものなのです。そして信仰によって与えられた「イエス・キリストのいのち」は古い生き方に適用させることができません。ここでイエス様がおっしゃっているように、そうするなら古い着物のやぶれがますます広がってしまったり、古い皮袋が張り裂けてしまうように、使い物にならなくなってしまうのです。そのような部分的な適用のさせ方ではなく、生き方すべてを新しいものと入れ替えるというのが正しい対応です。破れた服は脱ぎ捨て、新しい着物であるところのイエス・キリストご自身を身にまとうのが信仰者としてのふさわしい歩みです。そして力に満ちているイエス・キリストのいのちを入れるのにふさわしい皮袋であるためには、昔から使い続けて柔軟性を失った古い皮袋ではなく、新しくされた皮袋でなくては張り裂けてしまうのです。
私たちはイエス・キリストに対する信仰によって、すべてが新しくされたのです。とはいえ旧約聖書の律法や福音書に出てくるユダヤ人の律法学者たちの影響は受けている訳ではいないでしょう。しかし、それぞれが信仰を持つ以前の生活習慣に対する影響それなりに受けているものだと思います。先々週マタイ9章13節の「あわれみは好むが、いけにえは好まない」というみことばを学びましたが、これは表面上の形式が整っていたとしても、心がともなっていなければ意味がないというか、逆に心が神様に対して誠実に向いているのであれば、それが信仰者としてのふさわしい姿であるということだという内容でありました。
日本文化は「恥の文化」と表現されることがあるでしょう。私たちは人からどう見られるかということが物事の判断基準になりうるものですし、自分自身も人を外観や目に見える言動で判断しがちであります。これがこの個所で「いけにえ」と表現されているものだと言えるものです。そして、このようなものが私たちにとっての「破れた古い着物」であり「古い皮袋」と言うことができるかも知れません。だとしたら、このような価値基準にイエス・キリストの新しいいのちに基づく生き方を部分的に適用させてしまっては、お互いを破壊してしまいかねないのです。私たちはあらゆる場合に神様に対する信仰、信頼を失わせることなく、隣人に対する愛をもって日々の歩みを送るものでありたいと願います。それが「あわれみ」と表現できることがらであり新しい着物、新しい皮袋であります。
神様が私たちに注いで下さった愛に基づいて、それに対する感謝を持って応答する信仰生活がどのようなものであるのか、みことばの勧めに基づき、神様からいただく知恵によって賢く判断していくお互いでありたいと願っております。
【聖餐式】
本日このあと「聖餐式」を執り行います。私たちに対する神様からの愛に基づく犠牲がもっともはっきり表されているのがイエス・キリストの十字架です。この事実を覚え思い起こすのが聖餐式に於いて提供されるパンと杯です。パンによってイエス・キリストのみからだが割かれたことを思い起こします。杯によって流された血潮に心を留めるのです。それらは私たちの自己中心的な罪による罰を身代わりに受けて下さったことであります。この歴史的な事実によって、私たちが自分の罪からもたらされる罰を、この身に受けなくても良くなったのです。そればかりか、祝福として天の御国における永遠のいのちにあずかる希望と約束が与えられたのです。
この事に対する感謝と、それがもたらされるようになるためにイエス様の受けられた苦しみ、父なる神様の犠牲を深く心に覚えるなら、自ずと神様に対する信仰、信頼が確かなものとされ、私たちの内に働く神様の力によって主のみこころにかなった信仰生活が送られるようになってくることでしょう。それがイエス・キリストを救い主として受け入れたことで新しい着物に着替えることであり、新しいぶどう酒を入れるのにふさわしい新しい皮袋であります。本日集われた全ての人々に、神様からのそれぞれにふさわしい取り扱いと祝福が豊かに注がれることを願いつつ、聖書宣教を閉じさせていただきます。