マタイの福音書 8章28〜34節 悪霊追い出しとその結果
【序論】
先週の礼拝ではイエス様が湖の波風を静められた奇跡についてみてまいりました。これは自然現象がイエス様の言うことを聞いているということですが、今週は悪霊がイエス様のいうことを聞いているという事が記録されている箇所になります。
今までイエス様が行ってきた様々な奇跡は人々から歓迎され、それによって弟子志願者が起こされてきていたというのが先週確認した内容でした。しかし、今日の箇所ではイエス様のなさった奇跡を快く思わなかった人たちが登場しているというのが特徴です。
聖書箇所として読んでいただいたのはマタイの福音書8章28節から34節ですが、この出来事についてはマルコ5章と、ルカ8章にもそれぞれ記述があり、どちらかというとそちらの方が詳細に記録しております。ですから、メッセージの中でそれらの箇所も確認しながら、どのようなことが起きていて人々がどのように対応して行ったのかについて観察して行きたいと思っております。
【悪霊との会話】
先週の日曜日の聖書宣教は、イエス様がガリラヤ湖に舟でこぎ出したところ、暴風雨のため舟が沈みそうになったときに、イエス様がそれを沈めたということでしたが、今日はその到着地点になります。場所がどこかというと28節に「ガダラ人の地」とあります。聖書の巻末についている地図「キリスト時代のパレスチナ」を見ると「ガダラ」というのは湖から少し南に離れたところにある地名です。しかし、今日の聖書箇所の出来事は湖の岸に沿った場所であるはずなので、正確な土地の名前としては「ゲルゲサ」と書かれている場所になるようです。マルコやルカの記述では「ゲラサ人の地」というように表現されていますが、それがこの地図上では「ゲルゲサ」と記載されている場所になります。
そこでイエス様ご一行を迎えたのは、なんと墓から出てきた悪霊につかれた二人の人でした。「墓から出てきて」と言っても彼らは墓に葬られていたわけではありません。当時のお墓のスタイルは洞窟、洞穴を死者の埋葬のために利用していたこともあるようで、彼らはその洞穴を住処としていたということです。そしてこの時彼らがイエス様たちのことを出迎えたというのですが、ここに「彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった」とあります。これは誰もがこの場所を避けるようになっていたということでしょう。しかしイエス様たちは舟がこの場所に流れ着いてきてしまったものだから、ここに降りざるを得なかったのか、それともイエス様があえてこの場所に舟を向かわせたという事かもしれません。理由はともかく、このときその悪霊につかれた人たちがイエス様たちに害を及ぼすことはありませんでした。この時の様子はルカ8章28節に次のようにあります。「彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』」彼らはイエス様にひれ伏しているというのは、礼拝しているというのです。他の人間には害を及ぼしていたにもかかわらず、イエス様に対して攻撃を仕掛けることはなく、かえっておとなしくひれ伏しているのです。しかもイエス様に対して言っているのは「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」というもので、イエス様が神の子であり自分たちに対して権威を持っている事を認めつつ、命乞いをしているような内容です。
またこの個所マタイの福音書の表現を見ると「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」となっております。ここで特徴的なのは「まだその時ではない」という表現です。この言い方から、いつか悪霊が苦しめられるときが来るのが決まっているということが分かります。悪霊たちは自分の運命というか、この先何がどうなるのかということについて、私たち人間よりも多くの知識を持っている存在です。ですから「まだその時ではない」と言えるのでしょう。ではその時はいつなのかというと、黙示録の記述にある、まだ将来のこととして「患難期の終わり」とか千年王国の後「白き御座のさばき」と言われている時で、黙示録などの聖書の記述を見ていく時に悪霊達が滅ぼされる時がやってくるということが分かります。今日は時間の都合でこれ以上深く突っ込んでいくことはいたしませんが、いつか終末論についての話題に触れる機会があれば、その時に学んでみたいと思っております。
【豚に乗り移る悪霊】
ともかく、このタイミングは悪霊たちに最終的なさばきが下される前の段階ということで、悪霊たちが願ったのがマタイ8章31節で「それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。『もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。』」ということです。30節を見ると「ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。」とあります。マルコの福音書によると、ここに2000匹の豚がいたということが書かれています。悪霊たちはそこに乗り移らせて欲しいと願って、どうなったのかというのがマタイ32節で「イエスは彼らに『行け』と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。」ということです。これらのことから悪霊の働きとは人間や動物にわざわいをもたらすものだということが分かります。マルコ5章4,5節には「彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」とあるように、元々墓場で暮らしていた二人の人物は悪霊の影響で、人々のみならず自分自身の身をも傷つけていたということがわかりますし、それが彼らから離れて豚に乗り移ることで豚が湖になだれ落ちて死んでしまっているのです。2000匹もの豚に悪影響を与える悪霊だったのですから、随分この人たちをも苦しめていたのだろうと思われます。
ところで、このときに湖に落ちておぼれ死んだ豚はこの地域に住んでいる人が何らかの目的で飼っていたものでした。それが突然自ら命を絶ってしまったのだから、それは相当な被害をもたらしたことでしょう。しかし豚とは旧約聖書では「汚れた動物」と見なされており、ユダヤ人は豚を食べません。食べる以外に豚がどのように使われることがあるのでしょうか。ミルクが出るわけでもなく、せいぜい皮を加工して何かの道具を作ることができる程度でしょう。それにしては2000匹はあまりにも数が多いように思われます。
ではこの豚たちは何だったのかというと、このガダラ人の地はユダヤ人ではなく異邦人が住んでいた町であったということから考察される事があります。ユダヤ人は豚肉を食べませんが、異邦人であればその食物規定は適用されませんので、まずこの豚はガダラ人と呼ばれる人たちの食用として飼われていたということが考えられます。しかし恐らくそれだけではなかったであろうというのが、悪霊が豚に乗り移らせて欲しいと願い出ていることと、その結果多くの豚がいのちを失っているということとの関係から考察されることです。それは何かというと異邦人による偶像礼拝のためのいけにえとして、この豚が用いられていたであろうということです。そして天と地を造られた唯一まことの神様はご自分以外のものが神として礼拝されることをお嫌いになられます。そしてこの地域で活動している悪霊がこの墓場に住み着いている人に乗り移っていたのですから、この悪霊は豚との関係が深かったということでしょう。そしてイエス様にしてみれば、その「偶像礼拝」に対して、そのいけにえであった豚が滅ぼされるということと、その豚を飼育することで収入を得ていた、要するに偶像礼拝に荷担して豚を飼っていた人たちへのさばきとして、この悪霊追い出しと豚への乗り移りを許可されたということが考えられます。
そしてイエス様はこの時の悪霊追い出しの奇跡によって、この地域で豚が捧げられている偶像の神よりもご自分の方が力があり、本来礼拝されるべき存在であることを証しするために、このようにされたということが考えられます。ですからこの出来事はこの地域に住む人々が偶像の神ではなく、イエス様に目が向けられ注目されるべきことだったはずです。
【人々の反応】
しかし、結果はどうだったのかというと33節以降です。「飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」ということです。残念ながらこの地域の人たちはイエス様のことを歓迎して受け入れるどころか、自分たちにとって都合の悪い人物として「この地方を立ち去って下さい」と申し出ているのです。おそらく彼らの考えでは、これからもこの土地に居続けられたら、またいけにえの豚が殺されかねないと考えたのでしょう。この土地が偶像礼拝の影響が強い地域だと考えると、この墓場に住み着いていた悪霊付きの人たち以外にも悪霊につかれていた人たちが他にもいただろうと思われます。そしてイエス様がこの地域にいて悪霊追い出しの活動を続けたとすると、そのたびにいけにえとして飼っているはずの豚が沢山いのちを失って、いけにえとして用いることができなくなると考えたのかもしれません。だとしたらイエス様に立ち去って欲しいと願っているのは、そのような事をおそれてお願いしているということになるでしょう。実際にイエス様がこの土地で活動を続けていたとしたら、多くの悪霊が処理され、それにともなって偶像を礼拝することもなくなってくるでしょうから、悪霊による偶像への捧げ物として豚を飼育する必要もなくなってくるはずです。ですから彼らがイエス様のことを歓迎して受け入れることができていたのなら、恐らく多くの人が悪霊と偶像礼拝から解放されたことでしょうが、残念ながら人々はそれを願わなかったのです。自分たちにとって祝福をもたらすはずだったイエス様のことを「自分たちにとって都合が悪い」と自己中心的に判断してしまったことであります。
【悪霊から解放された人】
これが豚を飼っていた人たちの反応ですが、それに対して、イエス様によって悪霊を追い出してもらった人の姿はそのようなものではありませんでした。マタイの福音書ではこの事が割愛されているので、ルカの福音書8章の記述を見てまいりたいと思いますが、38節と39節です。「そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。『家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。』そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。」というものです。彼の願いはイエス様といっしょに行きたいということでしたが、それはかないませんでした。それは彼がイエス様の弟子としてふさわしくなかったというのではなく。彼がこの後イエス様の後をついていき弟子としてイエス様から直接学ぶよりも、もっとふさわしい働きがあったからです。それが彼が家に帰って、神が自分自身にしてくれたこと、悪霊からの解放について証しするということです。彼のこのような体験は他の人とは異なった特別な経験であります。それが証しされることこそ、神様の栄光が表されることになるでしょう。イエス様はそれをするようにとこの人に勧められ、それがなされることで神様の御業を、イエス様の力の偉大さを証ししようとされたということです。
【結論・適用】
というのが今日の箇所から学ぶことのできる内容ですが、「悪霊追い出しとその結果」というのが今日の聖書宣教のテーマでした。悪霊追い出しの経緯についてはイエス様がお持ちの権威について確認していくことができましたが、本日特に注目してみたいのはこの時に二通りの対応をしたそれぞれの人たちの姿です。最後のそれらの人たちについて振り返り確認して聖書宣教を終わりにしたいと思います。
まず、豚を飼っていた人ですが、彼らはイエス様に「この地方から立ち去って下さい」と願っています。要するにイエス様を歓迎して受け入れることがなかったということです。確かに2000頭もの豚を一瞬のうちに失ったということで経済的な損失を被ったとは言えますが、この事でイエス様を拒んだことでこの後、彼らがイエス様からの祝福を受けることを自分の方から遠ざけてしまったということが言えるでしょう。彼らがその土地の偶像礼拝に荷担していたであろうということは先ほどお話ししましたが、その偶像の神の実態については恐らくこの時、豚に乗り移らされた悪霊たちとの関係のあるものだったと推察されます。ですからイエス様がこの地に留まって活動を続けていたとしたら、その地域に影響を与えていた偶像という悪霊の活動が制限されるようになったことでしょう。それは本来この地方の人たちへの祝福になったはずですが、彼らはそれを望まなかったのです。なんともったいないことをしたと思いますが、他人事ではありません。
私たちもイエス様を受け入れることで、それまでこだわっていたものを放棄しなくてはならない場合、似たような対応をしかねないと思います。それが悪霊の働きだとはいいませんが、神様のへの信仰生活に反するような何かの悪い習慣がやめられなくている場合、それは神様のみこころを拒んでいるということになるでしょう。「肉の行い」としてガラテヤ5章19節から21節に「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」というものがあげられていますが、これらのものに対して妥協しているのでしたら、それはイエス様に「どうか私から立ち去って下さい」と言っているようなものではないでしょうか。そうではなく自分の弱さを認めつつ、そこからの解放を心から願ってイエス様を心の王座にお迎えすることで、そこからの解決が与えられるお互いでありたいと願います。なにしろそれらは私たちへの神様からの祝福を取りこぼしているようなものだからです。
これに関しては豚を飼っていた人たちの反応を反面教師として教えられることですが、悪霊を追い出してもらった人からは私たちの模範を見ることができると思います。彼はイエス様によって悪霊からの解放が与えられ、その後イエス様について従っていきたいと願うようになりました。そのような思いこそ、恵みを受けたものとしてのふさわしい態度だと思います。しかしイエス様はそれを良しとはされませんでした。それは彼がイエス様についていくよりももっとふさわしい彼だけがなすことができる働きがあったからです。それが人々への証しです。
私たちも、神様に従っていくのには様々な具体的なスタイルがあるでしょう。ある人は牧師、伝道師、宣教師として神様のことばを直接伝える働きに携わるということがありますが、必ずしもそれだけが主の弟子としてのふさわしい歩みというわけではありません。主が私に何をして下さったのかについて人々に証しするということも、それと同じくらい大切な働きと見なすことができます。そしてそれは誰にでもできる事でしょう。イエス様はこの悪霊につかれた人に対して「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」とおっしゃったのと同じ事を私たちにも勧めておられるのではないでしょうか。私たちも神様が私たちにしてくれたことを証しするのです。今日の話に登場する「悪霊を追い出してもらった」という人はいないかもしれませんが、何もしてもらっていない人はいないのです。主が私たちに成してくださった最も大きな事はひとり子イエス様を私たちの罪の購いとして十字架につけられたということです。
今日この後聖餐式を執り行いますが、これこそ私たちの為に神様の成してくださった大いなる御業を振り返って思い起こすときです。イエス様の犠牲によって私たちは罪からの赦しと開放が与えられました。また日々恵みとあわれみのうちに日常生活が守られています。そしてそればかりか将来における永遠のいのちに至る祝福が約束されているのです。悪霊を追い出してもらった人が自分にしてもらったことを家族と地域の人たちに証ししたように、今日このパンと杯にあずかる私たちが、今度具体的にどのような形でか、主が私に何をして下さったのかということを積極的に証ししていく番であります。