マタイの福音書 8章1〜4節 ツァラアト患者へのきよめ
【序論】
本日の聖書宣教の箇所に「ツァラアトに冒された人」が登場します。「ツァラアト」とはヘブル語の音訳で、旧約聖書中に何度かこの単語が登場しています。そして、この単語について昔の聖書翻訳では「らい病」と訳されておりました。しかし、この「ツァラアト」が「らい病」ではないということが後の研究によって明らかになったのと共に「らい病」という表現が差別用語にあたることから、2003年に出版された新改訳聖書の第3版からは「ツァラアト」と表現されるようになったということがあります。
そして、このツァラアトの症状については旧約聖書のレビ記13章から、事細かに書かれているのですが、これを確認するとハンセン師病の症状とは異なっているために、ツァラアトはハンセン師病ではないということが言えるわけです。「ハンセン氏病」とは末梢神経の細胞内に細菌が入り、神経障害や皮膚症状が見られる感染病です。そして以前は不治の病と見なされていましたが、現代の医学では適切な治療を行えば治癒が可能な病気と理解されています。ただ繰り返しますが、これは「ツァラアト」ではありません。
【ツァラアト・レプラ・ハンセン師病】
ということで、今日の聖書宣教は今日の聖書箇所に入る前に「ツァラアト」に対する正しい理解をもっていただくために、ツァラアトとは何なのかということについて触れさせていただきます。初めに、この「ツァラアト」がハンセン師病でないにもかかわらず、なぜ以前の聖書翻訳でそのように表現されていたのか、その経緯について説明いたしましょう。それは、その間にいくつかの翻訳のフィルターがかかってしまったことによります。元々旧約聖書はヘブル語で書かれていたものですが、それがギリシャ語に翻訳される段階で、この「ツァラアト」の訳語に「レプラ」という単語が宛てられました。この「レプラ」とは皮膚の表面にできる粉状のものの総称という意味の医学用語です。要するに肌が荒れてカサカサになっているのもレプラですし、頭洗わないで何日かたつと現れる「ふけ」もレプラなのです。ですからツァラアトに冒された人の症状を説明する表現として「レプラ」となりますが、一口にレプラといってもハンセン師病によるレプラとツァラアトによるレプラは別物であります。
しかし、ギリシャ語の聖書を読んでいくだけでは「ツァラアト」のことを「レプラ」と表現している以上「ツァラアトはレプラのこと」というという理解がされてくるわけです。またそれと同時期(1世紀)にローマ時代の医学者が「ハンセン師病」のことを「レプラ」という医学用語で表現されるようになったことで、ツァラアト=ハンセン師病というように受け止められるようになってしまったということもあります。また「レプラ」ということばが日本に入って来たのは「ハンセン師病」の訳語としてです。このような背景から聖書を日本語に翻訳して行くにあたって旧約聖書の「ツァラアト」や新約聖書の「レプラ」が登場した時にそれを「ハンセン師病」と理解するようになってしまったということです。
【レビ記13、14章】
では聖書は「ツァラアト」について、どのようなものだと言っているのかというと、それがレビ記13章に書かれています。症状としては3節で患部の毛が白く変わってその患部が他の部分よりも深く見えるということです。しかし、47節を見ると衣服できるツァラアトについての記述があります。また、14章35節によると家の壁にもツァラアトはできるのです。もしも、ツァラアトがハンセン氏病だとすると、衣服や家の壁にはできません。ですからツァラアトとは他の特殊な皮膚病を指すものであり、それが具体的にどのような症状であるかについては、現代においては特定することができないものであります。なにしろ「ツァラアト」である事を宣言できるのは医者ではなく、祭司だとあります。医学的な問題ではなく、宗教的な問題によって現れる現象がツァラアトだというように受けとめられるものなのです。
ちなみにその判定は祭司によって7日間、随分細かくその患部の様子が観察されます。その間隔離されるわけですが、その観察結果でツァラアトではない場合、祭司によって「きよい」と宣言され、解放されます。しかしツァラアトだと認められた場合「汚れている」と宣言されますが、その瞬間から彼の生活はがらっと変わります。レビ記13章45節以降がそれですが、その人はその日着ていた上着を引き裂いて、髪の毛を乱し、口ひげを覆います。しかも歩いているとき、誰か向こうから歩いてきたならば「汚れている、汚れている」と叫ばなくてはならないのです。それは、もし健康な人がツァラアト患者に触れると、その人も汚れることになってしまうからです。そして、住居はツァラアト患者だけが入ることの許されている特別な地区に移されます。そのようにして彼はユダヤ人の交わりから疎外され、幕屋や神殿に入って神様を礼拝するという霊的な祝福を受けることができなくなるのです。
第2歴代誌の26章にウジヤという王が出てきますが、彼が祭司たちをさしおいて香をたこうとしたときに、神様が彼を打ち、ウジヤ王がツァラアトに犯されたという記事があります。このことからこれが宗教的な問題による症状であり、当時のユダヤ人達の理解では、ツァラアトは神のさばきによるものだという理解がありました。
そして、ツァラアト患者が癒された場合は何をしなければならないのかということが、レビ記14章に書かれています。まずは、祭司が彼のからだの隅々まで調べて、ツァラアトの痕跡がないかどうか調べます。そうして患部が癒されているなら、二羽の鳥を捧げるように命じられています。第1の鳥が殺されて血が流され、それを第2の鳥に注ぎかけられて第2の鳥が自由にされます。そこから7日間、様子が見られ、再度その病人が診断されます。そして問題がなければ、彼は自分の衣服を洗い、体中の毛をみなそり落とし、水を浴びます。そのようにして祭司から「きよい」と宣言され、ユダヤ人の交わりに復帰することができますが、その次の8日目は特別な日で、儀式が行なわれます。10?20節がそれですが、雄の小羊2頭と雌の小羊1頭、および穀物の捧げものがなされます。まず動物がほふられその血を、癒された人の右の耳たぶ、右手親指、右足親指にそれぞれ塗ります。また油も同様に癒された人に塗って、最後に全焼のいけにえと穀物の捧げものをして、祭司はその癒された人を「きよい」と宣言します。かいつまんでお話ししましたが、それでも随分面倒な規定です。
【ツァラアトの癒し例】
そしてそのツァラアトの癒しについてですが、民数記12章にモーセの姉、ミリヤムがツァラアトに冒されて、7日間宿営の外に連れ出されたという記録があります。しかしこれはモーセの律法が完成される前の段階で、このレビ記に書かれている手順通りに処理がされたわけではないようです。また第2列王記5章にナアマンという人がツァラアトに犯された後に癒されていますが、彼はユダヤ人ではなくシリア人でした。異邦人である以上、モーセの律法に基づく処置は必要ありません。旧約聖書でツァラアトが癒された人物に対する記述があるのはこの二件だけです。そしてそれ以降、ユダヤ人がツァラアトからいやされたという記事は律法が与えられて以降、聖書外資料からも出てきません。そのような背景があるため、ユダヤ教のラビ達は「メシアである方が来てその方が癒すのでなければ、ユダヤ人のツァラアト患者が癒されることはあり得ない」と理解していたというのです。
当時のユダヤ人は奇跡を二つの分野に分けて考えていました。それは、もし誰かが神の力を受けたのなら、その人が誰であっても、神の力によって行うことができる奇跡と、メシアだけがいやすことのできる奇跡です。福音書の中にイエス様の奇跡がいくつか記録されていますが、神の力によって誰でも行うことができる癒しが行われても、さほど大きな影響は与えておりません。しかし、メシアだけが行うことができるという癒しが行われた場合、人々は驚くような反応を示しております。そのメシア的な癒しというもの中に「ユダヤ人のツァラアト患者が癒される」ということがあったのです。ということはユダヤ人の理解において、ユダヤ人のツァラアト患者を癒す人は、その行為ゆえに自分がメシアであるということを宣言していることになるのです。
序論が随分長くなりましたが、このような予備知識がこの個所を理解する上で助けになるというか、逆にこのことを知らないでいると、この箇所の本当の意味について理解することが難しくなるため、触れさせていただきました。
【マタイ8章】
そうして、やっと本日の聖書箇所に入っていきますが、マタイ8章2節にひとりのツァラアト患者が登場しています。まず興味深いのは彼の行動で「ひれ伏して言った」ということです。この個所に*がついておりますが、その脚注を見ると「あるいは『拝んで』」とあります。要するに彼はイエス様に対して礼拝しているのです。彼はユダヤ人のはずです。そして当時のユダヤ人は神以外のものを礼拝することについて相当敏感で、なによりも「偶像礼拝の罪」を冒すことがないように徹底していました。そのユダヤ人がイエス様を礼拝しているというのです。何か間違ってしまったということではありません。というのも、この時彼の口から出たセリフが「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」ですが、彼は自分がツァラアトに冒されていることを理解しており、それをいやすことができるのは旧約聖書の預言しているメシアだけであるということも、教えられていたことでしょう。その彼がイエス様ならいやして下さるとの理解をもって、このことを求めているのは、彼はイエス様のことを「旧約聖書の預言しているメシアである」と認めているということになるでしょう。だから彼は当然のようにイエス様を礼拝対象と理解して「ひれ伏して」いるのです。
それに対するイエス様の対応が3節です。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」とあります。このときイエス様はツァラアト患者に触れておられるのです。イエス様はさわらなくても癒すことができたはずでしょう。福音書中にイエス様が遠い距離、離れていても癒しの御業をなされたという記事がいくつか出てきていますので、さわる必要はありません。しかし、ツァラアト患者のいやしにおいては「手で触る」ということが非常に大きな意味を持ってきます。この人は自分がツァラアトにかかって以来、人間の手の感触を受けたことはなかったことでしょう。なにしろツァラアト患者に触れることによって、触れた相手が汚れてしまいますので、誰も好きこのんでツァラアト患者に触れることはありません。それがイエス様によって、触れられるという体験を久しぶりに受けたのです。これは彼に対するイエス様の大きな愛を表現していることだと見ることができます。
そのようにして癒しがもたらされたわけですが、この後4節でイエス様が「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」との命令はレビ記14章に記されている規定に基づいて処理をするようにという勧めです。そして、ここで「だれにも話さないようにしなさい」と言いながら「人々へののあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい」とあるのは、他人に触れ回るよりも先に祭司によるツァラアトの癒しの確認をするようにということです。そしてそれをもって当時の宗教指導者達が正しい判断をもってイエス様のことをメシアとして認められることを願っておられたはずです。イエス様のこのツァラアト患者の癒しはご自分がメシアであることの証しです。だからこそイエス様は、癒されたこの男に「だれにも話さないようにしなさい。」とおっしゃっているのでしょう。祭司による正しい判断がなされる前に噂が広まってしまうと、群衆はイエス様が何ものであるのかという理解に於いて、混乱しかねなかったわけで、それがここでイエス様が「だれにも話さないように」と言われた理由だと考えられます。
【平行箇所より】
ところが、マルコの福音書1章にこの平行箇所があるのですが、45節に「ところが、彼は出て行って、この出来事を触れ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表だって町の中に入ることができず、町はずれの寂しいところにおられた。」とあります。彼はあまりにも嬉しかったのでしょう。祭司に見せて判断され捧げものをするより先に、自分の身に起こったことを言い広めてしまいました。恐らく彼の癒しに関して、律法の規定通りに観察したり捧げものをすることもできなくなったと考えられます。またイエス様にしても「そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた」とあるように、彼の行動によってイエス様の働きについても影響を与えてしまったということです。
【出来事の確認】
ということで、ここまで聖書に書かれている内容を確認してきましたが、いくつかポイントになることを整理してみましょう。
まず、ツァラアトはハンセン氏病ではなく特殊な重い皮膚病の類で衣類や家の壁にできることもある、宗教的な問題に伴う症状であるということです。そしてレビ記には13章にその病気になった場合の規定、また14章には癒された場合の規定が詳細に書かれてあります。しかしこれまでに、これらを実行した記録がないため、ユダヤ人のツァラアトが癒されたとしたら、それは旧約聖書に預言されているメシアの奇跡であるというのが当時の理解でした。ですから、今日の箇所はイエス様がご自分のメシア性を明らかにするためになさった業であるということができます。
またイエス様は直接触らなくてもいやすことができたはずなのに、あえてツァラアト患者に対して触れることで、癒しをなさったというのは、ご自身の彼に対する愛を表しておられるということでしょう。ということが、今日の聖書箇所から考察されることです。
【イエス・キリストに】
その中でも今日は特に、イエス・キリストに対して目を向けてみたいと思います。イエス様がツァラアトをいやすことができるお方であるということは、イエス様の力の大きさを表しています。医者でもいやすことのできない病ですら、イエス様はいやすことができるのです。私たちのあらゆる問題解決についても、イエス様がその方法をもっていらっしゃらないはずがありません。ツァラアト患者が「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」との告白をもってその病気がいやされたように、私たちもこのお方に対する信頼をもって、あらゆる問題への解決を与えられていくものでありたいと願います。
また、イエス様がこのツァラアトをいやすときに、あえて彼に触れられていることは、ご自身の愛が表されているということでした。触らなくてもいやすことができるお方がわざわざ触って癒しをされているというのは、このツァラアト患者の気持ちを汲み取って、彼がして欲しいことをご自分の方から積極的に実践しておられるということでしょう。彼にしてもまさか触られるなんて思ってもいなかったことだと思います。1コリント2章9節に「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」というみことばがあります。神様がなさるみわざとは私たちが想像すらできなかったことを提供して下さるのです。そこにご自身の愛が表されているのです。
そして、私たち誰も思い浮かんだことのない、最も大きな愛がイエス・キリストの十字架の犠牲です。私たちは自分の罪ゆえに滅びに向かっており、いのちを失うべき存在でした。しかしイエス・キリストが私たちの罪から来る罰を身代わりに負ってくださったがゆえに、私たちはその自分の罪から来る罰をこの身に受けなくても良くなったのです。ツァラアト患者の表現を借りるとすると「主のお心一つで、私たちがきよめられた」のです。
この後聖餐式を行い、割かれた身体を記念するパンと、流された血潮を象徴する杯にあずかります。主の犠牲と苦しみをもう一度振り返って心に思いめぐらす時間です。私たちがこのお方への信仰によって与えられた、罪の赦しに対する主への感謝を持って、ともにこの恵みにあずかろうではありませんか。