マタイ6:16〜18  断食するときには

【序論】
 今日の聖書宣教はマタイの福音書6章より「断食する時には」というテーマでお話しをさせていただきますが、私達にとって、あまり「断食」とは一般的ではないように思います。また、普段なかなか「断食」について学ぶこともないでしょうから、本日はこの聖書箇所に入っていく前に、断食に関して聖書にどのような記述があるのるのか、まず見てまいりたいと思います。

【旧約聖書の断食】
 まずは旧約聖書からですが、申命記9章にモーセが40日40夜断食したということが、2回書かれています。最初が9節で「私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。」とあります。このときモーセが断食した理由については触れられていませんが、モーセが神様から十戒のいましめをいただいた時の記録で、神様から「断食せよ」と命じられたとは書いていません。あくまでも自主的にモーセが食事をしなかったということのようです。
 そして二回目が18節から19節で、ここには「そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行い、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。」とあります。ここでモーセが断食した理由について「民たちの犯した罪」だと言われています。これは一度目にモーセが十戒をいただいている間、民たちが金の子牛の像を造って偶像礼拝をしていたことで神様が怒られたことがあました。そのことで神様からの怒りによってイスラエルの民たちが討ち滅ぼされないようにという熱心な祈り、願いを実践するためにモーセが食事をしなかったということでしょう。こちらも神様から「断食しなさい」と言われたわけではなく、モーセが自主的に断食したということのようです。
 このように熱心な祈り、願いによって断食をしたということについては、その後のダビデの姿からも見ることができます。ダビデがウリヤの妻バテシェバとの姦淫によって子供をもうけて、ウリヤを戦死させたという記録がありますが、その問題を預言者ナタンに指摘され、第2サムエル12章14節で「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われました。そしてその子は病気になり、それを受けてダビデがどうしたのかというのが16、17節で「ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。」ということです。そしてこのときダビデが断食していた理由が22節で「もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。」と言われているように、子どもを助けて欲しいという一心で、祈り願うことで断食をしていたということです。
 他にも熱心な祈り、願いの為に断食を行っている例はエステル記からも見ることができます。ユダヤ人が滅ぼされそうになった時、エステルがペルシャの王にあわれみを乞うために直談判をしに行くとき、次のように言っています。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。(4章16節)」とあるように、ここでの断食はエステルの申し出が王に受け入れられるようにという、熱心な祈りをささげるための断食ということになるでしょう。

 またレビ記23章には聖書が制定している祭りについての記述がありますが、その中で27節に「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。」とあります。これは年に一度の「贖罪の日」というイエスラルの祭りに関する記述ですが、ここでは「身を戒める」ということが勧められています。そして、それをエレミヤ書36章6節ではこの日のことを「断食の日」と表現がされていますので、この日ユダヤ人達は断食をしていたということのようです。
 定期的に行われる断食で聖書的根拠があるのはこれだけですが、イスラエルがバビロンに補囚されたあとは年に4回断食をしていたことが、ゼカリヤ書8章19節から見ることができます。ここには「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。」ということですが、彼らがそれぞれの月に断食を行っていたのは、イスラエルのがバビロンとの戦争に敗れたことと深い関係があるようです。まず、イスラエルの首都エルサレムがバビロン軍に包囲されたのが10月で、4月にエルサレムの城壁が破られ、5月には神殿が破壊されました。そして7月に当時の総督ゲダルヤという人物が殺害されてイスラエルの敗北が決定的になった時ということがそれぞれの起源で、それぞれの歴史的な出来事を覚えて断食をして悲しんでいたということです。

【新約聖書の断食】
 これらが旧約聖書から見られるものですが、新約聖書の記録によると、ルカ18章12節のイエス様のたとえ話に登場するパリサイ人が「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と言っているように、当時のユダヤ人の断食は週に2回実践していた人がいたようです。このようにイエス様がこの地上に来られた当時のイスラエルで断食は一般的で、宗教的に熱心な人は週に2回、そうでなくても年に4回とか1回は断食をしていたということが言えます。
 そして、イエス様の生涯についても、マタイの福音書4章2節に「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」とあるように、イエス様も断食をされていることを見ることができます。そしてその理由として考えられるのが、この後のイエス様が悪魔から受ける試みに対して断食をして祈り備えていたということができるでしょう。
 その後、使徒の働きには13章2,3節には「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」とあり、14章23節に「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。」とあります。当時の人々は何か重要な働きの前に断食と祈りによって物事を決定し勧めていったということが分かります。
 ということで、今まで挙げたものに共通のこととして「断食」と「祈り」がセットになって登場していることが分かるでしょう。断食と祈りには深い関係があるということです。逆に神様との交わり、祈りのない断食などはちょっと考えにくいものであります。

【断食時の禁止】
 そのような断食に関する聖書の教えに対して、今日の聖書箇所でイエス様が戒めているのは「偽善者」の断食です。「偽善者」とは以前も確認した事でもともと「役者」という意味で、この人の行為は本心からではなく、お芝居として行っている行為だと言うことです。この人物が断食をしている理由は特別な祈願があったり、重要な決定をすることで祈りに専念する為のものではありません。表面上はそのようなことがきっかけなのでしょうが「役者」なので、本心はそこにはないのです。人に見られることが目的なので、いかにも断食しているという態度をして、他人から「敬虔な信仰者」という評価を受けたいが為に行っているということでしょう。そしてこの人の目的は人に見られることによって達成していることになるので、16節に「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」といわれているのです。

【断食時の勧め】
 それに対して、17節には断食する時に「自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」ということが勧められていますが、これは断食の時に使用する特別な整髪料があったわけではありません。また「顔を洗う」ということも、特別な事ではなく、毎日するはずの当たり前のことを指して言っているものです。ということは、ここで勧められているのは「断食しているからといっても、それ以外の普段行っていることについては、いつも通り行いなさい」ということでしょう。そして「いかにも断食している」というそぶりは必要がないというか、すべきではないという勧めだと見ることができます。

【断食の目的、報い】
 それはどうしてなのかというのが18節で「それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」ということです。人からは見られなくても神様はすべてをご覧になっております。その神様は私達の目には直接見ることができないためにここで「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」と言われているのです。自分が断食しているということは神様だけに知ってもらえればそれで十分です。そしてその事に対する報いは、人からではなく神様によって確実に与えられるものなのです。
 逆にそうでないと、断食する意味がなくなってしまいかねません。なにしろ断食とは、断食そのものが目的なのではなく、食事を絶ってどうするのかということです。冒頭で確認した聖書中に見られる断食の例を考えると、祈りや神様のとの交わりに深く関係しているものであることが分かります。このような状態にならなければ断食には意味がないのです。だとしたら、神様に喜ばれる形での断食でなくては本来の意味をなさないでしょう。ルカの福音書16章15節にはイエス様のことばとして「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。」とあるように、人からあがめられるものは神様から拒まれるのます。ですから人のことを意識することなく、純粋に神様に対して心と思いが集中されるために食物を絶って、熱心に祈りと願いをささげつつ、神様のみこころを尋ね求めるというのが本来の断食の姿であります。

【断食以外に適用】
 というのが今日の聖書箇所から教えられる「断食」についての勧めですが、断食しなければ今日の話は関係ないのかというと、実はそうでもありません。本日学んだこのような原則は食事を絶つ「断食」ということだけに適用されるものではなく、もっと広い意味で捉えるべきものだと思います。というのは神様を信じ、従う生活をおくる上で、何か他のものが犠牲になる場合があるでしょう。それ自体は特別悪いことではなく正当なものであっても、神様を信じる信仰生活をおくることを目的として、自主的にそれを制限することが「断食」と似たようなものだと言うことができるものです。食事を絶つ事だけではなく、何か自分自身の趣味や嗜好品、娯楽など、そしてその他の事情などを自主的に制限することに関してもこの原則が適用されるものであります。そのような自主的な犠牲によって、神様との関係を深め、熱心な祈りや聖書のみことばに取り組むことで、断食によるものと同じような影響がその人自身にもたらされるのではないでしょうか。
 ですから、そのようなことについても、人の目を意識して制限するのではなく、純粋にそれを絶つ事によって神様との関係を深めることを目的として行われるべきものであります。自分が神様を信じる信仰生活をおくる上で、何かを自主的に制限している事があったとしても、それを他人にひけらかすことは必要ないというか、すべきではありません。それは他の誰かによって知られなくても、神様がすべてご存知です。そして神様はその私達が自主的に行っている制限に基づいて、ふさわしい報いを与えてくださるというのが、聖書が私達に約束してくださっている真理なのです。

【結論・まとめ】
 ところで、先月からこのマタイの福音書6章を学んできておりましたが、今まで3週間にわたって似たようなテーマを取り上げてきました。2週前には人に見られないで行う施しが勧められており、先週は人に見られない祈りの勧めでした。そして今日は人に見られない断食ということについて学んでまいりましたが、これらすべてのことに共通して勧められているのが、6章1節のみことばです。ここには「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」とあり、これを本日の中心聖句とさせていただきました。今まで見てきた施し、祈り、断食どれも「善行・良い行い」ということばで表現できるものであります。そしてその「善行」は施し、祈り、断食に限らず、信仰生活に関わるあらゆる行為にまでおよぶものであります。コロサイ人への手紙3章23節に「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」との勧めもあるように、あらゆる行いが神様に対してなされるという意識を持って実践することが求められているのです。

【実践の為】
 では、それを実践するにはどうしたらよいのかということですが、今までも何度か申し上げているように、人間の罪の性質はあまのじゃく的に働きます。「しなさい」と言われるとしたくなくなり、「するな」と言われるとしたくなるような性質を持っているのです。ですから「やろう」と頑張って心掛けることが、必ずしも良い方向に導かれるかというとそうでもありません。私達には律法の要求を完璧に実践する力は残念ながら持ち合わせていないのです。ですから頼るべきは神様の力であります。そしてその神様の力が注がれるのは聖霊の働きによらなくてはなりません。それは神を信じる信仰によってもたらされるものでありますので、信じる対象について正しい理解が必要です。
 ですから、知るべきは神様が私たちに何をしてくださったのかということであります。私達は罪人です。それは私達が自らの力で律法の要求している基準を満たすことができないことによります。ですからその代わりに神様がひとり子なるイエス・キリストをおくって下さり、このお方が完璧に律法の要求を実践してくださったのです。そればかりかこの方が、私達が自分の罪ゆえに受けなくてはならなかった罰をも身代わりに負ってくださいました。それが十字架の犠牲であり、最も大きな犠牲を父なる神様が払われ、最大級の苦しみをイエス・キリストが負ってくださった事です。そして、これは全部、神様がご自分のために行ったことではなく、すべて私達人間のために成してくださった犠牲なのです。ここに神様の大きな愛、あわれみ、めぐみが表されており、私達に注がれているものなのです。
 このような神様が私たちの為に成してくださったことを受け止めたなら、この受けた恵みに対する感謝の応答として、神様のために何でもしたいという思い、願いがわき出てきて当然のことではないでしょうか。そして聖霊はそのように私達に働くのです。私達が神様のことを信じることができたのも聖霊の働きですし、信じたあと、私達の心に働いて神様の御旨を行いたいとの願いを与え、それを実践できる力を与えてくださるのも聖霊なのです。

 今日はこの後、聖餐式を行いますが、これこそ私たちの為に神様が成してくださった大きな犠牲である所のイエス様の十字架を覚えるひとときです。イエス様の割かれたからだと流された血とを覚えて、パンと杯にあずかることで、私達の心の奥深くにこの事実が留まります。御霊によって私達が取り扱われ、みことばの勧めを正しく実践できるように造りかえられることを期待して、感謝を持って共に聖餐式にあずかりたいと願っております。