ルカの福音書 10章38〜42節 「どうしても必要なこと」

【序】
 先週講壇交換で、上社福音キリスト教会で奉仕してきました。祝福された奉仕で皆様の執り成しに感謝します。豊明の礼拝は「人生の土台」というテーマで重岡先生が語ってくださいましたが、その前の週に私が語った聖書宣教と全く同じ所が聖書箇所として指定されていました。特に打合せをしていたわけではありません。逆に打ち合わせていれば、違う箇所からのメッセージになったと思うのですが、重岡先生から私宛に連絡があったのは金曜日の午後でした。メールの内容を見たときに、驚きつつもどうしようかと一瞬迷ったのですが、特に「その前の週にそこから語っている」ということを告げることもなく、承りました。なにしろ重岡先生も祈りつつ、豊明希望チャペルのために備えられた箇所なのでしょうし、同じ箇所から語っても切り口は当然変わってくるものです。実際に、重岡先生ならではのアプローチで先生自ら体験された証しについて、随分触れられていたようなので、マタイ7章の岩の上に家を建てるということの重要性について語られているみことばが皆さんにより強く印象に残ったであろうと思っております。そして、これらの出来事の背後には、やはり神様の主権に基づくみこころがなされたのでしょうから、今の豊明希望チャペルにとって大切なみことばとして神様が示してくださったのだと思います。
 それに「同じような話しを繰り返し」ということは、実際にイエス様もされていたようです。マタイの福音書5〜7章にイエス様の長いメッセージが記されていますが、それを似たような内容が、ルカの福音書6章にも記されているのです。マタイの福音書は山の上で語られていたことから「山上の説教」と言われますが、ルカの福音書では山を下って平らなところで語られていたことから「平地の説教」と言われています。要するに同じ時に語られたメッセージをマタイとルカがそれぞれ書き記したというのではなく、違ったときに語られたメッセージをそれぞれに書かれたものだということです。しかし、その内容が大変よく似ているということは、イエス様はそれらの両方で、同じようなメッセージを語られたということになるでしょう。そして、それはマタイの書き記している山の上と、ルカの平地の2回だけ語られたものというのではなく、弟子たちのいる前でイエス様自身の口から何度か繰り返して語られていた内容であろうと推測されます。聖書中で繰り返し語られているということは強調を意味します。大変重要な真理であるが故にイエス様は繰り返し語られたのでしょう。
 さて、いつになく長めの序論ですが、今日の聖書宣教の聖書箇所として選ばせていただいた箇所は、やはり随分有名で、イエス・キリストの生涯をテーマにした聖書物語や聖書の絵本、マンガなどでは大抵取り上げられている出来事と思います。ですから皆さんにとって十分に知っている内容でしょう。しかし、私が豊明に赴任してきて80回ほど聖書からのメッセージを語っておりますが、その中では一度も取り扱っていない内容でした。ちょうど今、ラブキッズでも、聖書のみことばについての学びが行われているので、タイミング的にも今この個所からというのが最もふさわしいと思い、ルカの福音書10章38〜42節より「どうしても必要なこと」というテーマでお話しさせていただきます。

【内容観察】
 では内容に入ってまいりますが、この聖書箇所について皆さんよくよく知ってらっしゃるとは思いつつも、一応確認の意味を込めて一節ずつ観察していきたいと思います。

 38節から読んでいただきましたが、背景としてはイエス様と弟子たちはエルサレムのあたりを移動していたと見ることができます。38節に「イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。」とあります。この村は、エルサレムから東に3kmほど行ったところにあるベタニヤという村です。ルカの福音書10章1節に「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」とあります。このマルタの家にもイエス様によって使わされた、イエス様の弟子が訪問してイエス様の語られたメッセージを伝えていたことでしょう。それに共感した彼女らが、直接イエス様が来られたことを聞いて、喜んで彼らの家に迎え入れたということです。恐らくマルタたちはイエス様の弟子からイエス様についての話、イエス様がどんな不思議な業を行ったか、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、湖の暴風雨を静めたりされたことなどを聞いていたことでしょう。また17節によると「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」とあります。ですから、もしかするとマルタたちの知り合いにイエス様の弟子から悪霊の追い出しをしてもらった人がいたのかもしれません。そのようなことからその弟子の先生が来られた事で、彼女らは大歓迎でお迎えしたのだと考えられます。

 マルタはイエス様を家にお迎えして、歓迎しもてなしのために準備をしていました。彼女のできる限り最高のもてなしをしようとあれこれ考えて、食事の準備、料理などをしていたのかもしれません。しかし、忙しく動き回っているマルタとは対照的に妹のマリヤはイエス様の足もとにすわって、イエス様の語られていることばに耳を傾けていました。
 このような状況で、姉のマルタは不愉快な思いをしたようです。40節でイエス様に対して「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と、文句ともとれるような表現で語っています。 自分がイエス様のもてなしのために忙しく準備にしているのに、妹マリヤは何一つ手伝おうともせず、話を聞いている態度に憤慨したのでしょう。そして、イエス様なら自分の気持ちに共感して、マリヤに対して「さあ、席を立ってお姉さんのお手伝いをしておいで」と言ってくれるに違いないと思ったのでしょう。しかし、このことばを受けてイエス様が答えられたのが41、42節で「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」というものでした。見事にマルタの期待を裏切って、マリヤをそのままにさせるようにと言うのです。

【イエス様のことば】
 ではこの時、イエス様がマルタに言ったことばを詳しく見てみたいと思います。まずマルタに対して叱責のような表現で「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」と指摘しています。彼女はこのときイエス様のもてなしの準備をしておりました。しかしそれだけではなく、いろいろなことを心配して気を使っていたのだそうです。もしも一心不乱に脇目もふらずに、もてなしの準備をしていたのだったら、イエス様からこのようには言われなかったことでしょう。そしてマルタがマリヤの様子を気にして、イエス様に対してマリヤが手伝うように言ってくれるように頼んでいることを見ても、確かにマルタはいろいろなことを気にかけていたということが読み取れます。

【マルタの心理】

 この個所について、ある注解書ではこのように推測をしています。「マルタにとって、彼らを接待することはなかなか骨の折れることであったに違いない。しかし彼女は初めから文句を言っていたのではなかった。おそらく彼女はイエスへの愛からこの労苦を進んで引き受け、かいがいしくもてなしの準備をしていたことだろう。彼女は仕事のためにイエスから離れていても、その心はイエスのそばにいたのである。しかし、しばらくするうちに、その思いは誤った方向に向き始めた。準備が思うようにはかどらないと、自分のしていることが何よりも大切なことのように思えてきた。それに比べてマリヤはどうだ。何もしないで主の足もとに座り込んだきりだ。こうなってくると、大切なことをしている自分だけが忙しいのは不当だといういらだちがつのってきた。もうイエスへの愛から働いているという思いはどこかに行ってしまい、大切な自分の仕事を手伝わない妹に対して怒りを感じるようにさえなってしまった。」というものですが、あたらずとも遠からずでしょう。
 そうしてついに我慢しきれずに、イエス様に対して「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と言ってしまいました。このマルタの表現は妹マリヤに対する不満だけではなく、マリヤをそのまま黙ってすわらせているイエス様に対する不満をも口にしてしまっているのです。イエス様に対する愛によって、もてなしを準備していたであろうはずなのに、いつしかその思いは薄れ、妹に対する憤りにはじまり、妹に対して自分を手伝わせようとしないイエス様に対する不満へと移っていったのです。ここに彼女の問題があったということでしょう。ですから少なくとも彼女が不満をもらすことなく、あれこれと気を使わないで、忠実にイエス様のもてなしの準備をしていたのだったら、彼女がイエス様から叱責を受けることもなかったことでしょう。

【何が大切か】
 そして、イエス様のことばの中にあるマリヤに対する評価を見てみましょう。「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」というものでした。イエス様はマリヤのしている、黙ってみことばに耳を傾けるという行為を「どうしても必要な、良い方」というようにおっしゃっています。実際に私たちは何かをしながら、他のことをするというのは難しいものです。同時に複数のことを実行するとなると、どちらかがおろそかになってしまったり、同時に二つのことをやっているようでも、実は交互にそれらをやっているだけだったりします。やはりからだは一つ、頭も一つですから、気本的に私たちは一度には一つのことしかできないような者なのです。
 そして、この個所のマリヤは彼女なりに自分のすべき事が何であるのか判断して、イエス様の足もとに座り、そのことばに耳を傾けたと言うことでしょう。ですから彼女に自分の手伝いをさせようとしている姉マルタに対して、「彼女からそれを取り上げてはいけません」とおっしゃっているのです。彼女が自主的に選んだ「イエス様の元にすわって、みことばに耳を傾ける」という事をイエス様は積極的に評価しておられるのです。

 このことから、みことばを聞くことが重要であるという理解にたって、この出来事を紹介しつつ、このあとの流れを創作しているマンガがありましたので紹介します。

〜 マンガ 〜

 このように両方とも、姉マルタはラザロにたしなめられて一緒にイエス様のことばに耳を傾けました、めでたし、めでたし、ということでしょうか。しかしこれは私の理解とはちょっと異なっているのです。というのも、これだと途中までマルタの行っていた、おもてなしの準備はどうなってしまったのでしょうか。そしてこれだと「おもてなしの準備がいけないこと」だということなってしまわないでしょうか。イエス様がマルタに言ったことばは「もてなしの準備をするのが良くない」というのではなく「いろいろなことを心配して、気を使って」いることを指摘されているだけです。もしも、もてなしの準備などすべきではなく、マルタも自分の近くで自分のことばに耳を傾けて欲しければ、マルタに対しても「わたしのところに来て、妹と一緒に私のことばを聞きなさい」と直接おっしゃったはずです。しかし、そのようには語られていないわけですし、だとしたら誰がイエス様たちのもてなしの準備をするのでしょうか。ですから、この出来事の後マルタのすべき事は、もてなしの準備を忠実に行うということで、そうすることで皆がマルタの働きに感謝しつつ、すべての人が共に主の祝福にあずかったということが相応しい結論になると思うのです。
 聖書がなにを語っており、何を語っていないのか、語っていることを無視してはいけませんし、語っていないことを断定してしまうのもいけないことです。もてなしの準備をしていたマルタに対して、すわってみことばに聞き入るようにとイエス様はおっしゃっていないので、そこまで語ってしまうと、それは真理であるとは言えない場合があることを気をつけなくてはいけません。

【中心聖句】

 今日の中心聖句とさせていただいた、ピリピ人への手紙2章13,14節には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」とあります。マルタはイエス様ご一行を喜んで家にお迎えしたのです。そして、自らすすんでイエス様のもてなしのために、あれこれと準備を進めていたのでしょう。しかし、彼女は自分を手伝わない妹マリヤに対して憤り、そのまま話し続けているイエス様に対しても、つぶやいてしまっているのです。聖書はつぶやくことなく、疑うことなく実行することを勧めています。しかも彼女がその働きをすることによって、他の人たちがイエス様の声に集中して耳を傾けることができるのです。ある面自分が犠牲になり、人の祝福の為に用いられるということになるでしょう。それはそれとして、すばらしい働きであるに違いありません。ですから、その様な視点を持って自分がその時するべき最も重要なことに対して、確信を持って誠実に取り組むことが大切なことだと言えるでしょう。
 とはいえ、だからといってみことばに耳を傾ける事について、ないがしろにしてはいけません。今ラブキッズでは続けてみことばの重要性を学んでいます。もちろんこれは決して忘れてはいけない真理であり、基本的には何にもまさって神のことばに耳を傾けるのは大切なことであります。そしてルカの福音書10章では、それを実践していたマリヤのことをイエス様は評価されており、彼女からそれを取り上げないようにとマルタに忠告しているのです。
 しかし、今日のルカ10章の出来事はそれだけを私たちに教えているのではありません。それと共に、マルタの行為とピリピ2章のみことばから考えていくのなら、自ら進んでやろうと決心した事については、つぶやくことなく、疑わずに行うことを勧めているのでしょう。それがマルタの場合、イエス様に対するもてなしの準備であったと、みることがでるのではないでしょうか。

【まとめ】

 ということで、今日のメッセージのポイントをまとめて終わりにしたいと思います。
 まずはみことばに耳を傾けることは大切な事として、イエス様はマリヤの姿を積極的に評価しておられます。私たちも、まず何を優先すべきかというと神様のことば、聖書に目を向け、耳を傾けることが信仰者として優先すべき事であるということを覚えたいと思います。
 しかし、時としてマルタのように、自分が他の働きをすることによって、他の人たちがみことばに集中できるようになる場合があり得ます。その人自身はその時、神様のことばを学ぶことはできませんが、だからといってその働き自体が卑しいものではありません。見方によっては、他人の祝福のためにその人が犠牲になっているということでしょう。ですから、その人がその様な理解を持って奉仕をしているのであれば、神様はその思いを積極的に評価して下さらないはずがありません。マルタの問題点は、みことばに耳を傾けている人から、その祝福を妨げようとしていることと、他人に対する憤りとつぶやきということが言えるでしょう。それを反面教師として学ぶことができます。たとえそれがどのような働きであったとしても、神様の御心に従った判断によってなされる私たちの働きであるなら、そによって他の人が神様から祝福され、また私たちも神様の栄光に共のあずかる喜びに満たされるのです。 私たちはつぶやくことなく、疑うことなく、それぞれに与えられたみことばに基づく確信によって、それぞれの奉仕を忠実に実践していくお互いでありたいと願っております。