ヨハネ15章1〜8節 「まことのぶどうの木と、実を結ぶぶどうの枝」  

<序論>
 今まで行ってきた、ヨハネの福音書からイエス様の「わたしは…です」というシリーズですが、今回が7回目の最終回です。今まで、イエス様がご自分でご自分を紹介していることばを、一つひとつ見ていきました。今年度の豊明希望チャペルの聖句は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ということなので、イエス様に目を向け続けることがテーマです。今までのメッセージで、それぞれに何かしら心にとどまったことがあれば、語ったものとして嬉しく思います。しかし、今後も毎週のメッセージの中でいつもイエス様に対する意識を忘れることなく準備していきたいと思っております。

<1節>
 では早速内容にはいってまいりますが1節ではイエス様がご自分のことを「ぶどうの木である」と言っております。とはいえ、ここではイエス様がご自分のことを「ぶどうの木である」とおっしゃっているとはいっても「イエス様は人間ではなく植物だった」わけではありません。またイエス様のお父さんはヨセフという人で大工をされておりました。しかしここでイエス様は「私の父は農夫」だと言ってますので、なにかおかしいですね。もちろんそういうことなのではなく、ここでの「私の父」とは、天におられる父なる神様のことを指していっております。とはいっても、その神様が実は農家をやってて、ぶどうの木の栽培をしていたということを言っているのでもありません。これは寓話というものに分類されるたとえ話であり「役割としてそういうものである」と言っているのです。イエス様はよくたとえ話をされていますが、そのたとえ話とはある真理を説明するのに、他のものを用いてよりイメージしやすく、分かりやすくするために、用いられたものです。ですから、このところで、イエス様は「わたしはまことのぶどうの木です」とおっしゃられたのもこの話を聞いている人たちに、ある真理をわかりやすく伝えたかったのです。
 では私たちもぶどうの木としてたとえられているイエス様がどのようなお方であるのか、また、それが私たちとどのような関係があるのかという視点で、今日の箇所、ヨハネの福音書15章1〜8節を順番に読み進めてまいりましょう。

<2節>
 そうして2節からイエス様の話は、ぶどうの木とその枝の関係に移っております。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」とあります。一本のぶどうの木からは何本も枝が伸びていて、あるものは実を実らせ、あるものはそうではないように、枝によってそれぞれ成長の具合に差がつくことがあります。そして、ぶどうの木であるイエス様につながっている枝の状態で実を実らせるか、そうでないかということが区別され、それぞれにふさわしい取り扱いを受けるのだとイエス様は語っております。
 そして、ここで、実際の作業をされるのは「父」とあるように、農夫の役割をされている天の父なる神様です。そして、実を結ばないものに対してここでは「父がそれを取り除き…」といわれております。でも、ちょっと残酷なような印象を受けないでしょうか。といいますのも、この話はイエス様がご自分の弟子たちを前にして語られた話であり、5節の「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」といわれている事を考えると、あなた方といわれているのはイエス様の弟子たちです。弟子たちが実を結ばないというだけで、その人たちは取り除かれてしまうのでしょうか。愛とあわれみに満ちた神様が、それだけで弟子たちを取り除いてしまうのかと考えるとちょっと疑問を感じます。
 しかし、ここで「取り除く」と訳されている言葉は、もちろん「取り除く」という意味もある単語ですが、一般的には「持ち上げる、支える、運ぶ」という意味の言葉です。そして、取りのけるという意味でも「場所移動」が伴う行為のようです。
 ですから、ここは「実を結ばない枝は取り除かれる」というよりも、持ち上げるとか場所を移すというような感覚で捉えたほうがよいでしょう。枝が実を結ばないことには何らかの理由があり、それに手を加えて持ち上げてみる。そうすることで環境が変わり、今まで実を結ばせなかった枝が、実を結ばせられるという事もあるでしょう。また「取り除かれる」と解釈したとしても、それを場所移動と考えると、やはりその枝が実を結ぶことができるようにしてくれるということだと思います。愛とあわれみに満ちた天の父なる神様が農夫としてなされる行為を考えたとき「実を結ばない枝はもういらないから取り除いてしまえ」とはされないでしょう。なかなか実を結ばないような枝であっても大切にし実を結ぶような工夫をしてくださるのが、天の父なる神様のなされる御業ではないでしょうか。
 それに対して、実を結ぶものは「刈り込みをされる」ということです。これは文字通り剪定という作業になるでしょう。実を結ばせるために何か余計なもの、必要のない部分があるのであれば、それは天の父なる神様によって取り除かれるというのです。その剪定がなされる目的は「もっと多くの実を結ぶため」であります。
 ところで、「刈り込む」というと思い浮かべるのは「切る」という行為であり、普通その時用いられるのは「はさみ」でしょうか。とすれば、そのはさみが当てられ、刈り込みがなされるときには、枝として多少の痛みを伴うものかもしれません。その刈り込みによって「辛い」と思うこともあるでしょう。しかしその目的は「もっと多くの実を結ぶため」というのです。一時的に辛いところを通ったとしても、その後にやってくるのは多くの実を結ばせるという結果であり、祝福なのであります。

<3節>
 そして3節でイエス様は「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」とおっしゃっておりますが、ここで「きよい」と訳されていることばは「雑草などが取り除かれた様子」を指すことばです。2節の表現を使うとすれば刈り込みが済んでいるということになるでしょう。そしてその刈り込みに用いられるものは、ここで「わたしがあなたに話したことばによって」とあるように、イエス様のことばによってであります。実を結ぶ枝が、もっと多くの実を結ぶためにはイエス様のことば、聖書のみことばによって取り扱いを受ける、刈り込みをされるというのです。
 皆様の中にも「痛いみことば」を何度か経験されている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それは私たちがもっと多くの実を結ぶためになされた「刈り込み」であって、神様が私たちを取り扱ってくださっている証しであります。

<4、5節>
 そして、4節でイエス様は弟子たちに「わたしにとどまりなさい」と勧めておられます。ここでは弟子たちが実を実のらせる条件として「イエス様にとどまること」がいわれているわけです。でも、人にとどまるというのはどういう事なのか、何となく分かりにくくないでしょうか。それで、この「とどまる」と訳されている単語を調べてみると「滞在する」という意味もありました。これだと「中にいる」という印象になります。
 そしてここでは木に対しての枝に用いられているので、枝が木の中に含まれているというのが「とどまること」であります。枝が木から離れてしまっては、とどまることにはなりません。枝が木にしっかりとつなぎ合わされているように、イエス様の弟子たちには、イエス様にしっかりとつなぎ合わされている状態が求められているのです。
 そのことについてイエス様は、同じく4節後半で「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と、ありますし、5節でも「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」とおっしゃっています。
 枝には枝自身で実を結ばせる力はありません。枝が実を結ぶための養分はその木本体の幹から与えられるものです。それと同様に人が人としての実を実らせるためには、その人自身に実を実らせる力があるのではありません。それを与えてくださるのが、ぶどうの木の幹本体であるところのイエス様です。ですから、イエス様につながること、イエス様にとどまることがイエス様の弟子が実を結ぶための条件になります。
 それと共に5節の後半では「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ともあります。枝がそれ自身単体では、実を結ぶことができないばかりか「何もすることができない」とまで言われているのです。枝が実を結ぶための養分は、その枝自身が生きていくためにも必要な養分です。ですから木から離れてしまった枝は実を結ぶことができないということだけではなく、その枝自身が生き続けることもできないということになるのでしょう。

<6節>
 それが6節にあるようにとどまっていなければ枯れてしまうのです。どうして枯れてしまうのかというと、枝が生き続けるために必要な水や養分が枝まで供給されないからです。実際に木の枝を切ってその辺にほおっておいたら、だんだん枯れてきます。実を結ばせるためには、その枝自身にいのちが必要です。その枝にいのちを与えるためには木の幹から栄養分が供給されなくてはならず、そのような状態にない枝は枯れてしまうのです。
 そして、枯れてしまった枝は、どうされてしまうかというと、6節後半にあるように火に投げ込まれ、燃やされてしまうというおそろしいものです。いくらあわれみ深く、忍耐強い神様であっても、いのちを失い、枯れてしまった枝に実を結ばせるようなことまではなさいません。これは最終的なさばきを表現していることになるでしょう。

<7節>
 ところで4節で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」とあり、5節では「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら」とあります。今までの話では、私たち人間がイエス様にとどまっていることという視点で見ていきましたが、今度は逆に、イエス様がイエス様の弟子たちにとどまると言われていることを考えてみます。
 このことについて、7節にもうちょっと具体的な表現として「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」言われています。ここで「あなたがた」にとどまるのは「わたしのことば」だというのです。イエス様がイエス様の弟子たちにとどまるのは「イエス様のことば」であります。イエス様自身の事をさして「いのちのことば」というのはこの福音書の冒頭にもなされている表現です。イエス様のことば、みことば、聖書のことばが私たちにとどまっていること、それがイエス様が私たちにとどまっていることになるのです。はじめの方3節でも、私たちが多くの実を結ばせるための刈り込みに用いられるのは「イエスさまのことば」だといわれていました。ここ7節でも、そのみことばの重要性が繰り返して語られています。私たちが生き続け、多くの実を結ぶためには、私たちの内にイエス様のことばが生き続けていることが求められているのです。そして、そのような人たちに対して神様はとっても大きな祝福を約束してくださっています。
 それが7節後半で「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とあります。すばらしいことですね。求めるもの何でも与えるとイエス様は約束してくださっているのです。

 さあ、それではいったい何を求めましょうか。たくさんの財産? 新しくて立派な家? 優れたリーダーシップ? みなさん、それなりに色々思い浮かべることができるのではないでしょうか。しかし、本当にここで言われている条件「イエス様にとどまり、イエス様のことばが私のうちにとどまること」さえ満たせば、求めるもの何でも与えられるのでしょうか。だとしたら、逆に私たちが何かを求めても与えられなかったとすると、自分がイエス様にとどまっていないということになってしまいます。
 または、イエス様にとどまっている複数の人物が相反する願いをしたとしたらどうなるでしょうか。例えば敬虔なクリスチャンの夫婦で、子供が授かることを願っていたとします。そして旦那さんが「息子が与えられるように」と願い、奥さんが「娘がよい」と願っていたとしたら、両方の条件を満たすということは不可能です。どちらかが悪い願いをしているわけでもありません。この夫婦が共にイエス様にとどまって、イエス様のことばがそれぞれの内にとどまっていたとしても、どちらかの願いは叶えられて、一方の願いは叶えられないということが起こりうるのです。

 とはいえ、この7節の「何でも与えられる」という約束が嘘、偽りであるはずがありません。では、この個所はどのように理解すればよいのでしょうか。それは、ここで「何でも」と言われているのは「私たち人間が結ぶべき実」について言っているということです。というのも、2節から6節までの話題は、枝が実を結ぶかどうかということでした。そして続く8節でも「あなたがたが多くの実を結び…」とあるように、やはり「実」について触れられています。ですから、ここの7節でイエス様が弟子たちに対して「何でも求めるなら与えられる」といわれたのも「実について」と考えるのが普通です。
 聖書は文脈を注意して読んでいかなくては、思わぬ誤解をしてしまうこともありえます。今日の箇所はその一つの良い例でしょう。ですから、今日の箇所を別の表現をするのなら「どのような実でも求めるのなら与えられる」というように理解するべき約束であり、それが聖書の文脈を考えて読み進めていくときに自ずとなされる解釈になります。

<ガラテヤ5章22、23節>
 では私たちが求めるなら何でも与えられる実とは何でしょう。「御霊の実」というものをご存じでしょうか。ガラテヤ5章22、23節(新約聖書339)に9つあげられております。そこには「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。聖書はこれこそが、私たち人間が結ぶべき「実」だと言っております。
 ですから、そのような「御霊の実」を実らせてくださいと願うなら、何でも与えられるというのが、このヨハネの福音書15章で、イエス様が「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とある本当の意味であります。

<8章>
 そして、枝が自分の力で実を結ばせないように、御霊の実を結ばせる力は、私たち人間には持ち合わせておりません。これらの実を人間の努力で手にすることはできないのです。というのも、ヨハネ15章8節では「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」とあります。
 もしも人間の努力で御霊の実を結べたとしたら、「あの人はスゴイ」と、その栄光は人間に帰されてしまうものでしょう。しかし、ここでは栄光を受けるのが、天の父なる神様であるといわれているのは、神様の力によって、人間に御霊の実が結ばれるからであります。
 枝の場所を移動させたのも神様の働きです。枝の刈り込みをされたのも神様です。枝が自ら実を結ぶための工夫を何かしたわけではないのです。また、実際の農夫がぶどうの枝に実を結ばせる工夫をして、その通りになったときに、その農夫は枝を誇るでしょうか?
 また、枝に人格があったと仮定した場合、その枝が「自分にはたくさん実がなっているぞ」と他の枝を見下したり、実のない枝が実のある枝を見て「あの枝はなんてすごいんだ」と思っていたとしたら視点が間違っていることになります。見るべきはその実を実らせるような工夫をされた農夫であり、農夫が誉め称えられるべきなのです。
 だから「父なる神様が栄光を受ける」となるわけです。

<まとめ>
 今日のメッセージテーマは「まことのぶどうの木と、実を結ぶぶどうの枝」という事で、イエス様と私たちの関係について学びました。そして、ぶどうの木はイエス様、またぶどうの枝はイエス様の弟子を指している表現でしたが、これは私たちクリスチャンの事を指して言っていると理解できます。実際の植物の枝が実を結ぶために、枝が何か努力しているわけではないように、この実を結ぶということは、枝である私たちが何事か一生懸命やって得られるものではありません。人間が一生懸命になって実を結ばせようと努力してできることではないのです。例えば、自分には愛が足りないからといって、愛するように努力したとしても、私たち自身にはその愛の実を実らせる力はありません。私たちがそれらの「御霊の実」を結ばせる為には、イエス様につながり、そこから聖書のみことばという必要な養分が注がれるとき、自ずとなされる神様の業であり、そのことによって天の父なる神様の栄光が現されるということなのです。
 自分にとって必要であると思う御霊の実に気付いたら、それを神様に求めつつ、聖書の言葉に耳を傾け、そこにとどまり、みことばを私たちの内にとどめましょう。そうすることで枝がぶどうの木から養分をいただくようにして、私たち人間が神様の力によって豊かに実を結ぶことになるのです。それは表面を取り繕っているようなメッキではなく、その人の内側が取り扱われて、人格そのものが作り替えられ、整えられて、外側ににじみ出てくる様にして表されるものなのです。

 今日ここに集われたお一人お一人が、日々みことばによって養われ、多くの実を結ぶものたちであることを期待しつつ、今日のメッセージを終わらせていただきます。