ルカの福音書2章1〜7節 イエスの誕生
【序論:アドベント】
町ではクリスマスムードが随分高まってきております。ここ豊明希望チャペルでも、今週から、クリスマス関係の集会が始まり、今週末の土曜日の午後にはファミリー・クリスマスとうタイトルで、特に子ども向けを意識した内容ですが、家族でクリスマスをお祝いするプログラムが行われます。そして来週の日曜日がクリスマス礼拝。来週はその日曜日の礼拝とクリスマス・イブである24日の水曜日の夜にはキャンドル・サービスが行なわれます。
今週はファミリー礼拝ということで家族で一緒に礼拝を守る週なので、いつもの子ども向けの時間「ラブキッズ」が行われません。いままでラブキッズのメッセージはクリスマス関係のお話がされてきました。そして今日のメッセージの聖書箇所はその続きとして、ルカの福音書2章から、ついにイエス様が誕生されたときのお話になります。
【いつ生まれたのか】
今日の聖書箇所はルカの福音書2章1〜7節ですが。その1,2節にイエス様が何時生まれたのかについて書かれています。それが「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」ということです。
ところで、今年は2008年ですが、これが何をもとに2008年目なのかというと、それがイエス・キリストが誕生したと言われている年を基準として、計算されているものです。実際に紀元前はBCというと英語でビフォア・クライスト:キリスト以前で、紀元後を意味するADとはラテン語のアンノドミノ:主の年ということばです。
しかし後の研究によって、AD元年にイエス・キリストが生まれたわけではないことが明らかになっております。その鍵になるのが今日の聖書の箇所で、まず皇帝アウグストによる住民登録とあります。皇帝アウグストは紀元前30年から紀元14年の間ローマを治めた皇帝です。そして、クレニオがシリヤの総督であったということについては、少なくとも紀元前12年から紀元9年の間は近東を治めていたようです。そしてその間の住民登録としては紀元前8年に勅令を出していた記録があります。ですから、このルカの福音書2章の記録は紀元前8年以降の出来事ということになります。
また、マタイ2章1節に「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。ヘロデ王はユダヤの王様でしたが、記録によると紀元前5年にエルサレムからエリコに移転しています。ですからイエス・キリストの誕生はそれ以前ということになります。
また16節には「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。」とありますので、このときは生まれてすぐではなく、2歳近くまでなっていた可能性があります。このようなことから考えると、イエス・キリストの誕生は紀元前8年から6年までの間のどこかだったということになるでしょう。
これで、これが歴史的な事実であり、おおよその年代が分かりますが、いつこのことがあったかというよりも、私たちにとっては何が起きたのかということの方が重要です。
【住民登録】
ということで、聖書の記述を見ていきますが、この時の勅令、住民登録に際して、ヨセフとマリヤはベツレヘムに向かいます。ベツレヘムはエルサレムの南約8キロのところにある小さな町で、当時彼らが住んでいたのは「ナザレ」という町でした。そこからベツレヘムまでは直線距離でも100km以上あるのです。道中、歩き通しでも2,3日はかかった計算になるでしょう。
どうして、彼らがこれだけの距離を移動しなくてはならなかったのかというと、4節に「ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、」とあります。ベツレヘムはダビデの出身地です。ダビデはここで羊飼いをして、預言者サムエルによって油を注がれました。それ以来ベツレヘムが、ダビデの町と呼ばれるようになりました。また、住民登録については、その人物の出身地においてなされるものだったようで、ヨセフとマリヤは彼らの出身地であるところのベツレヘムに向かったのであります。しかし、このような視点は人間の側から見たもので、神様の目から見るともうちょっと違う視点を発見することができます。旧約聖書のミカ書の5章2節に「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」と有ります。これはこのルカの福音書に書かれている時からさかのぼること700年も前に書かれた預言書の中の記録です。このミカ書の内容はメシア預言といわれている箇所で、将来において神様が人間に救い主をお使わしになることが予告されているのです。700年前にあらかじめ予告されているということだけでも驚きですが、もっと驚くべきは「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ということです。実は700年どころではなく、もっともっとはるか昔の大昔、永遠の昔からそのことが決まっていたというのです。
神様というお方は、何でもできるお方です。そして、全てをご存じなるお方です。その神様が何時どのような形で救い主をこの地上にお使わしになるか、永遠の昔から計画をもっておられて、その計画通りに御業をなされたということです。ヨセフとマリヤはナザレに住んでいたにもかかわらず、その二人をわざわざベツレヘムに向かわせることをもって、ご自身の計画を実現に至らしめたのです。彼らがベツレヘムに向かったのは、表面上はローマの住民登録の勅令によるものでした。しかし、この住民登録の実施についても、実は背後に神様の御手が延べられていていたということが確認できることであります。
私たちの身の回りにも、色々な出来事が起きます。しかしその全てに神様の計画とは無関係に起きていることはないのです。私たちが意識するかしないかにかかわらず、全ての出来事は神様の影響のもとで行われていることであります。そしてそれらは神を愛し、神の計画に従って召されている人にとっては、神様がそれらを通して最善を成してくださっているというのが、聖書が私たちに教えてくれている真理なのです。
【生まれた環境:飼い葉桶・布】
さて、その神様の計画通りベツレヘムに導かれたヨセフとマリヤですが、このとき、すでにマリヤはお腹の赤ちゃんが臨月を迎え、何時生まれてもおかしくないような状態でした。そしてそんなときに日も暮れて、どこかに宿泊しなくてはならないとき、どのような理由からか彼らは宿屋に泊まることはできませんでした。
よくキリスト教会で「聖夜劇」というものが行われます。そして、その内容は多くの場合、ヨセフとマリヤがいくつかの宿屋を回るけれど、どこもいっぱいで泊まることができません。すると最後に行った宿屋の主人が気を利かせてというか「家畜小屋ならあいているよ」と言って、彼らを宿屋の裏あたりにある家畜小屋に連れて行き、そこで一泊の宿を提供します。そして、その場所でマリヤが男の子を産みました。…というものです。
私たち日本人にとって「家畜小屋」というと木造の文字通り「小屋」のような環境をイメージするでしょう。しかし、聖書をよく見ると、どこにも「家畜小屋で生まれた」とは書いていないのです。しかし「イエス様が家畜小屋で生まれた」というように思われているのは「飼い葉桶に寝かされた」という表現です。飼い葉桶とは家畜にえさを与えるための器のことです。そして「飼い葉桶のあるところならそれは家畜小屋だ」というように理解されてきたと考えられます。しかし当時のイスラエルの生活習慣から考えると、家畜小屋のイメージは私たちが持っているものとは結構異なっているようです。
では当時「飼い葉桶」がどのようなところに置かれていたのかというと、それはもちろん家畜を飼っている場所ですが、洞窟のようなところが一般的だったようです。ベツレヘムにはいくつかの洞窟群があったそうです。そしてそれらは家畜小屋として使われたり、あるものは墓地として使われたりしていました。ですから洞窟には家畜小屋として機能するために飼い葉桶があり、死体を巻くための布が置かれてあったということです。
ヨセフとマリヤは今からまさに赤ちゃんを出産しようとしているわけで、その為には生まれてすぐ赤ちゃんをくるむための布と、赤ちゃんを寝かせるためのベッドが必要になってきます。しかし、何らかの事情で宿屋には泊まることができませんでした。そのような理由から布とベッドを確保するためにやむを得ず洞窟に入って救い主の出産を行ったということだと考えられます。
先ほど触れた聖夜劇のシーンですが、はたして赤ちゃんの出産のために「どうぞ洞窟へ」と案内する宿屋の主人がいるでしょうか。私が思うには、恐らく洞窟に行ったのは誰かから案内されてというのではなく、どうしようもなく、他に手段が無くて彼らが知恵を絞って布とベッドを確保するために何とか探し当てた環境が洞窟だったのではないと思います。
ところで、そのようにして生まれた救い主イエス様ですが、このときに巻かれた布はどのようなものだったかというと、本来なら死体が巻かれるために、洞窟に置かれていたものだったと考えられます。なにも生まれたばかりの赤ちゃんを、死体をくるむための布に巻きたくはなかったでしょうが、それしかなかったのならしかたがありません。なんと可愛そうなヨセフとマリヤであり、生まれたばかりのイエス様だったことでしょう。
しかし、最初に触れた住民登録についても、その背後に神様の御手が延べられていたという視点で見ていきましたが、こちらのイエス様が「布にくるまって飼い葉桶に寝かされた」という事についても、やはりその背後に神様の御手が延べられていて、そうなることが神様の計画だったと受け止めることができます。神様の方からイエス様が死体をくるむための布に巻かれるように導かれたと理解できます。
【まとめ】
ここまでイエス様の誕生の記録を観察してきましたが、これらの事実は私たちにイエス様の生涯における、いくつかの象徴的なことを表していると考えられます。
イエス様はこの時この地上にお生まれになりましたが、宿屋には彼らがいることができなかったのは、イエス様の生涯においても、本来自分自身がおられるはずのユダヤ人社会には受け入れられませんでした。そして、死体を包むはずの布にくるまれたのは、イエス様の誕生自体が実は死ぬことを目的として生まれられたという十字架の犠牲を象徴しているものだと見ることができます。そしてベッドではなく、家畜の餌が置かれるような飼い葉桶という場所に寝かされたのは、人間扱いもされていないということで、それは神の子、神様ご自身であるところのイエス様が、人間どころか人間以下の取り扱いを受けているという最も大きな謙遜、謙りを実践されたということであります。このイエス様の誕生は、これから後のイエス様の生涯を象徴的に表す、ある面悲惨な誕生物語とも言えるものなのです。
この天と地を作られた唯一真の神様が、人としてこの世にお下りになったのが神の子イエス・キリストです。人間の寝るベッドにお乗せすること自体が恐れ多いはずなのに、自らそれ以下の環境に身を置かれたのです。ヨセフとマリヤはやむを得ずそのようにしたのかもしれませんが、神様の視点から見ればそうではありません。自らの意志を持って、全き謙りを表されたというのが、このイエス様の誕生の記録から、私たちが見て取ることができる内容なのです。
【中心聖句】
本日の中心聖句は、第2コリント8章9節の「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」ですが、イエス様の誕生はイエス様の本来の神様としての立場から考えると全くふさわしくないものです。全てを所有しておられる方が何も持たないような状態になってくださったのです。そしてそれは私たちの為であり、イエス様の誕生によって私たちに神様の祝福が注がれるようになったということなのです。
さて、今週末からクリスマス関係の集会が色々と行われていきます。イエス・キリストの誕生をお祝いするものでありますが、その誕生とは私たちのために、神様が最も大きな謙りを成してくださったということです。誕生日を祝うのには「おめでとう」が一般的な挨拶なので「クリスマスおめでとう」ではありますが、それとと共に、それによって私たちに祝福が注がれたという事実を覚え「クリスマスありがとう」という視点も持ちつつ、この期間を共に過ごしていきたいと願っております。