創世記 28章10〜19節:ヤコブへの神様の約束
<出来事の背景>
まず今日の聖書箇所に出てくる「ヤコブ」という人物ですが、彼はベエル・シェバからハランという土地に向かっています。ベエル・シェバはイスラエルの首都エルサレムの南40kmの場所で、ハランは現在のトルコの南の端にある地名です。ごらんのようなロケーションですが、直線距離で約800km。ここ愛知県豊明市からだと青森県まで行くような距離です。ずいぶん遠くまで行くような感じですけど、それにはいくつかの理由がありました。27章にはこのヤコブという人が父と兄をだまして、長男の祝福を横取りしたという記述があります。それがもとで兄のエサウから恨みを買い、殺されそうにななりましたので、そこから逃げるのが一つの目的でした。また、もう一つの目的は彼のお嫁さん探しです。当時ヤコブが住んでいたベエル・シェバは彼らの家族以外、本当の神様を知らないでいる人たちばかりでしたので、その中からお嫁さんを探すのではなく、ヤコブのお母さんリベカの実家である、ハランというところに行くように両親から促されたのでした。
それまでヤコブは家族で一緒に過ごしていましたが、この時は文字通り逃げるようにして親元を離れ、一人で母の実家に向かって出発したのです。彼の思いはどのようなものだったでしょうか。随分心細かったことでしょう。父と兄をだましたことを後悔していたかもしれません。聖書には明確な記述がないので想像するしかないのですが、ヤコブは色々な思いを交錯させる中、旅を続けてあるところに到着しました。出発から50kmほど北上したところでの出来事ですが、それが11節で、もう時間も夜になり彼はそこで眠ります。
<夢の解説>
その夜、彼は夢を見ました。聖書の中に何カ所か夢によって神様からの啓示がなされている箇所がありますが、今日もその一つです。夢の内容が12節からで「一つのはしごが地に向けて立てられている」とあります。ここで、はしごと訳されている単語ですが、聖書中この個所にしか出てこないもので、具体的に何を指すかについては諸説あるようです。階段のようなものとか、古代オリエントの塔(タワー)のようなものだとも、考えられているようです。どんな形であるかは断言できませんが、ポイントになるのは「地に向けて」ということです。通常、はしごや階段、塔であれば、地上から「天に向けて」設置されるものですが、ここでは「地に向けて」なので、普通とは逆に天から地上に向けてのばされているというのです。しかし、ますますどのような状態なのかイメージしにくくなってしまうでしょうか。ところでヤコブのハシゴといわれる自然現象があるのをご存じでしょうか。専門用語ではレンブラント光線というもので、雲の切れ間から太陽の光が差し込んできれいな線が見えることがあります。これをヤコブのはしご(Jakob's ladder)と言われているようです。これがこの創世記でのハシゴだと言うわけではありませんが、上から下にのばされているということを考えると、似たようなイメージかもしれません。
ともかく、このはしごは神様の方が、ヤコブのところにおりてきてくださったことを象徴的に、知らせるために見せた幻と理解できるでしょう。そして13節で、そのおりてこられた神様がヤコブのかたわらに立っているというのです。
<神の約束>
その時に、神様がヤコブに語っている内容が、13節の後半からで、まず神様が自己紹介をされています。それが「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」というものですが、イサクはヤコブの父、イサクの父はアブラハムということですが、この表現は神様が彼らと契約を結んだという事実に基づいています。最初に神様はアブラハムと契約を結んでいますが、それは子孫、土地、祝福を約束しているものです。それが彼の息子イサクに対して継承されているのですが、それは創世記17章19〜21節と26章24節にあります。そして、イサクには双子の息子がいて、ヤコブが父イサクからこの契約の継承者としての祝福を27章27〜29節で宣言されたわけです。そしてその内容について、いくつかのことが神の口から直接語られているのがこの個所で、内容として次の項目があげられます。
彼とその子孫に土地を与える
子孫が増える
所有地の広がり
全ての民族が彼の子孫によって祝福される
神様が共にいる
神様の守りがある
もう一度この地まで連れ戻す
そうして、これら約束を成し遂げるまで神は決して、ヤコブを見捨てないということが最後に宣言されています。まさに祝福いっぱいの神様のことばです。しかし、ちょっと疑問も感じないでしょうか。先週のラブキッズの時間、ヤコブとエサウのお話がされましたので覚えておられる方もいるでしょう。内容については最初にちょっと触れた通り、ヤコブは父と兄をだまして祝福してもらったのです。祝福を受けたとは言っても、その手段には問題がなかったのでしょうか? 父や兄をだましたヤコブなのにお咎めがないのはどうしてだろうかそんな人に神様の祝福があるのは不公平なのでは? という疑問が浮かびます。
でも、お咎めがないわけではないのです。神様からの祝福は約束されていますが、これから後、彼の人生は苦難が続いています。お嫁さんをもらうために14年間もただ働きをしなければなりませんでした。それは父をだましたことで今度は自分がだまされるという経験をしています。これは兄と父をだましたことに対する神様からの取り扱いと見なされます。
とはいえ、それによって神様からの祝福の約束が失われたりすることはないのです。聖書の中で「契約、約束」は大変重要なものとして記されています。神様がアブラハムと結んだ契約はその時のやりとりから、アブラハムに対して神様を信頼する以外、何も神様はアブラハムに対して要求していることはありません。一方的な契約として神様はアブラハムとその子孫を祝福するということを約束しているのです。そして、それが息子イサクに継承され、こんどイサクの双子の息子のうち、弟であったヤコブに継承されているのです。ちなみに、その長子の権利が弟に移ることは、創世記25章23節に予告済みの内容です。そのようにして、エサウからヤコブに権利が移ったのは事実ですので、神様はアブラハム、イサクと結んだ契約に基づいてヤコブに祝福を与えているということです。
<幻の後>
夢の幻を受けた後、目を覚ましたヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、わたしはそれを知らなかった。」と言い、神様が自分と共にいることを知りました。それまではひとりぼっちでハランに行かなくてはならなかったと思っていたのでしょうが、そうではないということを理解したのです。そして、それは祖父アブラハムと、父イサクに対しての祝福を約束してくださった神様であり、彼が父と兄をだましてまで求めていた神様からの祝福を自分のものとして受け取ったことの確信です。
そして彼は休んでいたその場所を特別な場所として認め「ベテル」と名付けました。その意味は「神の家」というもので、神様がここにおられるという臨在を強調したものです。
<主が共にいること>
このようにして、ヤコブには神様からの守りの約束、祝福、契約が結ばれているということですが、この彼に神様が約束されたことの中に、私たちにも同じような約束を語ってくれている項目があります。それが本日の中心聖句であるところの15節です。
アブラハムやイサクも何度か失敗をしています。しかしだからといって、神様が彼らに約束された契約が破棄されるということはありませんでした。それはこの契約が片務契約というもので、契約の当事者のどちらか一方だけに責任があり、一方はただ受け取るだけというものだからです。だから人間の側に何があっても取り消されるようなことはないのです。
そのような性格の契約は私たちイエス・キリストを信じるクリスチャンに対して与えられている約束と同じです。私たちの信仰によって、神様が約束してくれたのは、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、何かしら失敗を犯したとしても取り去られるものではありません。しかしだからといって途中が順風満帆、ということが約束されているわけではありません。ヤコブもこの後多くの苦難を通ったように、イエス・キリストを信じたからと言ってすべてが自分の思い通りになるというわけでもないのです。不信仰や不誠実に対してはやはりそれにふさわしい取り扱いがやってきます。では、イエス・キリストを信じることにどれほどの良いことがあるのでしょうか。
イエス・キリストは今から約2000年ほど昔にイスラエルという国で十字架に架かっていのちを捨てられました。それは私たちの身代わりとして苦しんでくださったのです。本来ならば私たちが自分の罪故に苦しまなくてはならないその代わりをイエス・キリストが負ってくださったのです。そしてイエス・キリストは三日後に墓を打ち破り復活され、今も生きているのです。今は天に戻られて全能の父なる神の右に座しておられますが、このこのお方が天に帰られる直前、弟子たちの前で「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。」と語られました。何のために、イエス・キリストが私たちとともにいてくれるのでしょう。私たちが罪を犯したときにすぐにその場で罰を与えるための監視でしょうか? いえ、私たちが失敗をすることぐらい神様は百も承知です。そしてその私たちが失敗するからこそ、イエス・キリストの十字架の犠牲が必要だったのです。イエス様が代わりに罰を受けてくださったので、私たちに罰が下ることはなくなったのです。ですから、イエス・キリストが共にいてくださるのは、彼が私たちの行くべき道を導き、災いから守るため、永遠のいのちにいたる祝福を与えるためであります。
しかし神様が一緒にいても気がつかないことがあるようです。本日のヤコブも16節で「まことに主がこの所におられるのに、わたしはそれを知らなかった」と言っています。彼はそんな感じがしない状態だったけど、幻がしめされて、神様の方から語りかけてくださったことによって、そのことを受け止めることができたのでしょう。そうして、その確信は彼がこの時以降ずっと変わらず持ち続けたことと思われます。
クリスチャンに対しても、聖書は「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。」と語ってはくれていますが、そのことを私たちはどれほど理解しているでしょうか。クリスチャンでも「そんな感じがしない」という方もいるでしょう。これは感じることとか、何らかの理論的な説明によって証明されることではなく、聖書に書かれている啓示に基づいて信じるということです。
人間の感覚は誤りうるものでしょう。かえって、曖昧なものなのでそれが正しい理解を妨げる場合もあります。また人間の知恵や科学には限界があります。全ての真理を説明しきれるものではないのです。唯一の信頼できる真理は神様のもとにしかなく、その神様から人間に与えられた啓示がこの聖書です。
そんな気がしなくても、または理解できなくても、だけど信じるというのが信仰です。そして信じる根拠が神が私たちを愛するが故に、ひとり子なるイエス・キリストを十字架につけていのちを落とさせたという事実に基づくものです。真実な神様の愛がここにはっきりと現されているのです。私たちの信じる内容、信じる根拠もすべてイエス・キリストです。そしてそのお方が今も生きておられ、目には見えないけれど私たちとともにいてくださるというのです。それが私たちの信じる内容で「良い知らせ」「福音」と呼ばれるものです。
<結論>
本日、創世記からヤコブという方に現れてくださった神様のことばと、それに対するヤコブの応答を見ていきました。彼には契約に基づく祝福が約束されていました。そして私たちにはイエス・キリストの故に、神様からの祝福にあずかる者となったのです。それが罪の赦しと永遠のいのちです。私たちが罪赦されたものとして、神様との正しい関係に導き入れられたことの証しとしてイエス・キリストが私たちとともにいてくださるのです。そして、イエス・キリストが共にいてくださることによって、私たちの人生にはわざわいではなく将来と希望が約束され、永遠のいのちへと導き入れられるのです。
この神様からの祝福に満ちた人生を、喜びと感謝を持って平安に歩み続けるお互いでありたいと願っております。