使徒の働き 12章20〜23節 「栄光は神に」

【序】
 先週からラブキッズの時間ではエリヤという預言者について学んでいます。今日はバアルの預言者達との戦いでたった一人で勝利したというところから学びましたが。なんてエリヤはすごいんだろうと感じられるかもしれません。しかし、実のところ「エリヤがバアルの預言者達に勝った」というよりも、エリヤの信じている「神様が勝利した」ということになるでしょう。注目すべきはエリヤというよりも、エリヤを通してご自身の御業をなした神様ということになろうかと思います。

【ヘロデについて】
 今日の聖書宣教の聖書箇所からヘロデという人物について注目してみたいと思いますが、聖書の中に「ヘロデ」という名前の複数の人物が出来てきます。最初に出てくるヘロデはイエス様が生まれた頃ユダヤの王として即位していた人物で「ヘロデ大王」と呼ばれています。彼が幼子イエス様を殺そうとしたことでイエス様一家はエジプトに下っていって、ヘロデ大王が死ぬまで、エジプトで生活をされたということが、マタイの福音書2章書かれている記録です。
 また、マタイ14章1節にはイエス様の噂を聞いて「バプテスマのヨハネがよみがえったのだ」と言っている「国主ヘロデ」という人物が登場します。彼は、ヘロデ大王の4番目の妻が産んだ子供で「ヘロデ・アンティパス」という名前の人物です。イエス様が十字架に掛かられる前にエルサレムでの尋問をしたのがこの人です。
 そして今日の聖書箇所に登場するヘロデ王はヘロデ大王の2番目の妻による孫で、「ヘロデ・アグリッパ」という名前の人物です。ヘロデ・アンティパスから見れば「甥」という関係になります。このようにヘロデは王の家系で、随分多くのイスラエルの王様が彼の身内から出ています。権力的には大きな影響力があったようです。しかし、人格的な事に注目して聖書の記述を見るとイエス様を殺そうとしたり、バプテスマのヨハネを殺したりしていることから見られるように、自分に対して協力的ではないと判断される、敵対者に対する残忍さはヘロデの家系には見受けられる特徴のようです。
 使徒の働き12章1、2節には「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあるように、ヘロデ・アグリッパもやはり同じような性格を持ち合わせていました。ヘロデの残虐さはそれで終わるのではなく、12章3節にあるように、次にペテロにも手をかけようとしました。しかしこの時ペテロは御使いの導きによって牢から出られたのですが、その責任を番兵達に負わせ、ヘロデは彼らを処刑するように命じています。そしてこのような出来事があった後の記録が今日の使徒の働き12章20節からです。

【ツロとシドンの人たち】
 ヘロデの残忍さはその当時多くの人に知られ、恐れられていたことでしょう。20節に「ツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた」とあります。そうなると彼らもヘロデ王の標的にされないとも限りません。ツロとシドンの地方は当時ローマの統治によるシリヤ州に属する地中海沿いにある町です。そして20節の後半にあるように、この地方は王の国から食料を得ていました。このまま王から敵意をいだかれたままだと、彼らの食料の確保についても怪しいことになってしまいかねません。ですから人々は和解のためにエルサレムまでの長い距離をやってきたということです。
 ここまで見てきたヘロデ王の姿からは指導者としての良い模範を見ることは出来ないでしょう。人々がリーダーシップに対する恐れから従うのは健康な状態とは言えません。ヘロデが王としてその地域を治めていたとはいえ、彼が王として立てられていたのは、世襲によるヘロデ家に属していたということと、人々が彼らに反発することから自分に向けられるであろう被害を恐れて選ばざるを得なかったということが言えると思います。

【ヘロデのさばき】
 そしてそのような悪王ヘロデに対して今日の箇所で、神様からのさばきがくだったというように見なすことが出来るでしょう。多くの人々を目の前にしてヘロデ王は演説を始めました。その演説を受けて民衆は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたとあります。この表現自体が、ヘロデ王のご機嫌取りのお世辞と見なすことが出来る表現と思いますが、23節の表現によると、この後「主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」とあります。彼が打たれた理由について「神に栄光を帰さなかったから」ということです。ヘロデ王は「神の声だ。人間の声ではない。」という民衆のことばをニコニコしながら受け取って、そのようにいわれることを快しとしたというなのことでしょう。彼は自分が「神」と呼ばれることについて恐れの感覚はなく、かえってそれを歓迎しているということで、ここに明らかか高慢な姿を見て取れます。そのような彼の態度に本当の神様からのさばきがくだって彼がいのちを落としたということになります。

【ヨセフォスの古代誌より】
 実はこの出来事について、聖書以外の記録からも、同様のものが見られるので今日はそれも紹介したいと思います。ユダヤ人の歴史家ヨセフォスという人がいるのですが、その人の記録した「古代誌」というものの中に次のような記録があります。「この行事には彼の支配領域内の指導者達が出席しており、明け方、彼がきらめく銀色の衣服を身にまとって円形競技場に入ってきた。すると、朝日の光がその衣に当たって、驚くばかりキラキラときらめき、その輝きはそれを見つめる人たちに一種の畏怖の念を起こさせた。すると、彼のご機嫌取りたちが彼を「神」と読んでこう言った。『どうか、我らにあわれみをかけてください。もし我らがこれまであなた様を人として恐れていたのなら、今後あなた様を死ぬべき人間以上のお方としてお認めいたします。』そして、王は彼らのこのような称賛のことばを否定することなく受け入れた。その時王が上を見上げると、一羽のフクロウがロープにとまっているのを見た。王はそれをわざわいの兆候と思ったところ、その時彼は激しい腹痛に見舞われた。彼はすぐに宮殿に運び込まれたが、五日間の苦しみの後に息を引き取った。享年54歳。治世7年目のことであった。」
 微妙な表現の違いはあるものの、基本的に同じ出来事をそれぞれの表現で書き記したということが言えるでしょう。これらの一致はこの出来事が歴史的な事実であったことを証明しているものです。

 ヘロデが息を引き取ったときの表現で聖書は「虫にかまれた」と書かれていますが、どんな虫にかまれたら死に至るのかと不思議に思われる方もおられるでしょう。しかしこの「虫にかまれる」というのは慣用表現で、実際に虫にかまれたわけではなく、特に悲惨な最期を遂げた人に対するそのいのちを落とした時の表現として用いられていたものだそうです。

【死因】
 ということで、ヘロデが神様のさばきとしていのちを失ったということが分かりますが、聖書は「ヘロデが神に栄光を帰さなかったから」という理由を述べています。もちろん、それ以前のヤコブを殺したこと、ペテロにも手をかけて殺そうとしたことなどイエス・キリストを信じる者に対する迫害も、彼にさばきがくだされた事に無関係ではないでしょう。しかし彼の死の直接的な理由として聖書が語っているのは、彼が民衆から神扱いされたことで彼がそれを良しとしたことに拠るというのです。
 箴言16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。あとから見てみたいと思いますが、聖書は多くの箇所で人の高ぶり、高慢に対して警告を与えています。それはその人を滅びに向かわせるのだといいます。まさにヘロデのこの出来事はこの箴言のみことばによって説明できるものだと言えるでしょう。


【証し】
 ということで、ここまでヘロデの死について聖書の記録を見ていきましたが、実は私もいのちを落とすには至りませんでしたが、似たような体験をしているので、この場を借りてちょっとだけ反面教師としての証しをしたいと思っております。
 楽器演奏に関する体験ですが、私がギターを始めたのは中学2年からです。何度かお話ししたことがありますが、アリスという3人組のグループへのあこがれからです。その後高校に入ってからはバンドを組んでベースに転向しました。チョッパーという特殊な弾き方があって、それに対するあこがれからベースをやっていたのです。そして同級生の数人で組んでいたバンドは私の家が練習場所でした。6畳と8畳の二部屋がふすまで仕切られていた部屋が私の部屋だったので、そこにバンドメンバーの楽器が全部おけたのです。週に1,2回はメンバー全員集まって練習をしていたのですが、一緒に集まって練習する日ではなくても自分の家に帰り自分の部屋にはいると目の前は楽器だらけで、楽器をいじらない日は恐らく全くなかったと思います。継続は力なりとはよく言ったもので、今振り返ってもベースに関する技術的なことは当時がピークであったと思います。
 そうして楽器演奏に明け暮れた高校卒業後、専門学校2年目の夏に私は信仰を持ちました。札幌の教会で信仰を持ったのですが、その教会にはバンドはあってもちょうどベーシストがいなかったのです。私の姉が既に教会員でしたので、私がベースを弾けることはよく知っているため、すぐにバンドメンバーとして声がかかりました。当時、教会の賛美バンドで要求される演奏の技術というのはそんなに高くありません。その曲のオリジナルをカセットテープで聞いても出来なさそうなことは何一つ無く、かえって物足りなさすら感じていたものです。ですから練習するにはするのですが、そんなに本腰入れてみっちりってことはほとんどありませんでした。信仰持って数ヶ月の頃で、賛美がどういうものなのかの学びもしてはいませんでした。「賜物」という理解に関しても乏しく、それでいてただ楽器を弾けるからという理由で、声がかかってやり始めた教会の賛美バンドでした。そして、私にとっての最初の奉仕がクリスマス関係の集会で、それに向けての練習をしていました。当時、 私は教会における賛美の奉仕を軽く見て、ベースを弾ける自分がすごいという勘違いから「ちょろい、ちょろい」「自分だからできるんだ」なんていう思いで、まさに適当に弾いていたような感じです。要するに高慢だったのです。なにしろ、出来る自分がすごいと自ら思っていたわけですから。しかし、その時ふっと心に何とも言えない不安な感情がよったのです。とはいえ、別にだからどうしたということもなく、練習もいい加減に切り上げました。
 それから数日後、他の教会員と一緒に教会のクルマで買い物に出かけたときの帰りに、事件が起きました。スライドドアのレールに左手の薬指のわきを挟めて強か切ってしまったのです。出血もそれなりにあって、しばらく止まりませんでした。左手は元を押さえる指でして、指を怪我した私は即ベースを弾くことが出来なくなってしまったのです。自分にしてみればその時の怪我の理由は明確でした。スライドドアのレールに指を挟めたのは自分の不注意ですが、それ以上に楽器演奏に関する私の高慢な思いへの、神様からの警告です。この時の怪我を通して自分自身の愚かさと高慢さに気づき悔い改めました。信仰持つ前からやっていた楽器ではありましたが、その背後には神様の主権に基づく賜物として与えられていた技術だったはずです。それを私は「自分のもの」と勘違いしていたのです。そうして「出来る自分はすごい」と思っていたのです。それならもうその賜物は取り去られても仕方のないことだと思いました。 クリスマスの集会当日までそんなに間があるわけでもありません。この怪我により私はクリスマスに奉仕をすることは無理だと判断し、怪我の状態を他のバンドメンバーに伝えて相談したところ「残念だけど、今までもベース無しでやってきたし、怪我ならしょうがないから」といってくれたことが慰めになりましたが、この時私は「もう二度と与えられている賜物で高ぶることがないように」と決心したのです。するとどうでしょう。それから何日もしないうちに、カサブタがぺろっと剥がれて治ってしまったのです。外観上、跡は残っているものの楽器を弾くことについては、ほとんど影響ないような状態になったのです。いや、神様がいやしてくださったとしかいいようのない奇跡を私は体験しました。そうしてクリスマスの集会において私は神様が与えてくださったベースという楽器で神様をほめたたえることが出来たのです。
 もしもこの時、私が悔い改めることなく、自分の高慢さについても気づかなかったらおそらくクリスマスに楽器を弾く奉仕は出来なかったことでしょう。それどころか、今後一切ベースを弾くことが出来ない状態にもされたかもしれません。なにしろ王様一人殺すことすら訳なくできるお方ですから、私の片腕一本動けなくすることぐらい簡単なことでしょう。しかし、逆にそれが残され、用いることが出来る状態にとどめられているということを考えると、神様は私に対してあわれみをかけ、何らかの形で用いようとしてくださっているということだと理解しています。
 2週前のメッセージで「神様の思い直し」ということを共に学びましたが、その中で、罪に伴う災いとは、それが罪であることをその人に認識させるためのものであったり、悪を行ったらどのようなことが起きるのかということを災いを通して体験させるという意味があるとお話ししました。この時の怪我はその後数年も跡が残っていて見る度に思い出すどころか、楽器を弾く度にこの時の体験がはっきりを思い起こされます。今はその時の傷跡もほとんど分からなくなっておりますが、この時の怪我で神様は高慢になったらどうなるのかということを、私に身を持って体験させて下さった出来事だと実感してます。

【中心聖句】
 今日の中心聖句は、ペテロの手紙第一5章6節を選ばせていただきました。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」というものです。私たちが何か人から注目されるに値のある何かを持っていたとしても、それは結局全ての主権者である神様からの賜物であるはずです。そして神様がそれを取り除こうと思えばいとも簡単に私たちのところからそれは去っていくことでしょう。ですから神様の前に私たちはへりくだるのが当たり前なのです。ちなみに、このみことばの直前、5節の終わりには「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」とあり、これは旧約聖書の箴言3章34節の「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」とか、同じく箴言18章12節の「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」でいわれていることをペテロが引き合いに出しているということでしょう。
 またこれと同じ事が、ヤコブの手紙4章6節にも「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言れています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』ということが語られています。

 このように高慢に対する警告と共に、謙遜への勧めは聖書が繰り返し語っている真理です。神様の前に謙遜になれなかったヘロデ王はいのちを落とす結果となりました。全ての栄光は神様に帰されるべきものであります。私もベースを弾きながら「自分はすごい」と思い続けていたとしたら、ヘロデ王と同じ結果を招いていたかもしれません。しかし今でも楽器を弾くことが出来ており、両手が何不自由なく用いることが許されていることは神様からのあわれみゆえであります。
 今日の使徒の働きに見るヘロデ王や、私が信仰持ってすぐに体験した怪我などを反面教師として、皆さんが同じ轍を踏む事がないようにとねがっております。

【まとめ】
 さて、中程に自分の体験談をお証ししましたが、それが皆さんの印象に残るよりはよっぽど聖書のみことばが残るほうが皆さんの霊的祝福に繋がることであります。そして、そこにこそ神様の栄光が表されると理解しておりますので、最後にもう一度今日のメッセージを振り返りつつまとめを語って終わりにしたいと思います。

 ヘロデ王は随分残虐な王でありました。また、彼が民衆から神扱いされたという出来事がありました。そのとき彼が神を恐れることなく、本来神様に帰されるはずの栄光を自分のものとしてしまったことで、彼はいのちを落としてしまったのです。まさに高慢の極みをここに見ることが出来ますが、聖書は繰り返し「高慢」「高ぶり」に対する警告を語っております。
 私たちが、このヘロデ王のように人々からの称賛を心良しとすることがないように。かえって私たちの何らかの働きによって、人々から注目を受けたときにはその働きをさせていただいた神様に栄光をお返しすることが出来るように心掛けたいと思います。
 本来なら注目され、誉め称えられるべきは唯一の神様であり、そのひとり子なるイエス・キリストです。神が人となってこの地上に降りてきてくださったところに最大級の謙遜、謙りを見て取ることが出来ます。このお方の素晴らしさこそ他の何にもまさる栄光です。イエス・キリストこそ私たちの人生の全ての全てであります。

 ですから私たちが何らかの形で人目を引く奉仕に用いられた場合、私たちを通してイエス・キリストが証しされるように。また、私たちが誰かのすばらしい働きに興味が向けられたときには、その人を通してイエス・キリストの姿に目が向けられるように。そうして全ての栄光がこの天と地を創造された唯一の神であり、私たちのために最大級の謙遜謙りをもってこの地上に降りてこられ、十字架上でいのちをも捨ててくださった御子なるイエス・キリストに帰されるものでありますように。