創世記 21章1~21節 イサクとイシュマエル
【文脈確認】
創世記よりアブラハムの生涯を学んでおりますが、12章で神様はアブラハムに対して子孫を与える約束をしておりましたが、なかなか約束が果たされませんでした。そして、アブラハムも妻サラも高齢になって来て、自分たちから子どもが生まれてくるということが現実的に考えられなくなってきたことから、当時76歳になっていたサラが自分の女奴隷ハガルによって子どもを授かるという方法を提案し、イシュマエルという男の子が生まれました。これが創世記16章の内容です、そして、彼らはこのイシュマエルによって神様の約束が成就したと思っておりましたが、神様の御思いはそうではなかったのです。創世記17章でアブラハム99歳、妻のサラが89歳という常識的にはほとんどあり得ないと思われるタイミングで、神様はそのサラから男の子が生まれるということを予告されました。そして、18章では3人の旅人がアブラハムのところを訪問し、一年後にアブラハムの妻サラには子どもが生まれているということが伝えられています。
【イサク誕生】
そして、今日の箇所の冒頭1〜3節で、その約束の子孫が与えられた時についての記述がされています。「【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。」そして、5節には「アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。」とありますので、サラはアブラハムよりも10歳年下なので90歳です。90歳のおばあちゃんから子どもが生まれたということですが、常識的には考えにくい出来事であることから、これが神様の力が働いているということが言えるでしょう。
このとき産まれた子どもに付けられた名前は「イサク」というものですが、これは創世記17章19節で神様がアブラハムに「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」と語られた事を受けていることです。そのきっかけは神様がアブラハムに対してサラによって子どもが与えられるということが告げられた時、あり得ない事と思って笑ったということで、イサクという名前には「彼は笑う」という意味があることから来ています。ひと言で笑うと言っても様々な笑いがあります。子どもが与えられる事が告げられた時アブラハムは17章で、サラも18章でそれぞれに笑っていますが、これはあり得ない事が語られた事に対する、否定的な笑いでしょう。そして、今日の箇所21章6節前半ではサラが「神は私を笑われました。」とありますが、新共同訳聖書は「神はわたしに笑いをお与えになった。」と訳されています。直訳は「神は私に対して、笑いを作られた」という表現なのでどちらとも解釈出来るとは思いますが、神様が笑ったということは聖書中に記されていないので新共同訳聖書の方が本来の意図に近いように思われます。また6節後半には「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」とありますが、これも新共同訳聖書では「聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」とあります。ですからこれもサラとまわりの人両方が笑うということですが、これらは、創世記17,18章での否定的な笑いではなく、喜びに通じる肯定的な笑いという事が言えるでしょう。
【イシュマエルとイサクの確執】
そして8節には「その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。」とありますが、当時の慣習からいうとイサクは3歳程度であっただろうといわれています。しかし、9節には「そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。」とあります。この「エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子」とあるのがイシュマエルのことです。冒頭に触れましたがイシュマエルはサラが76歳の時の子どもです。イサクが産まれたのはサラが90歳のときですので、イシュマエルとの年齢差は14年。この時イサクが3歳ぐらいだったとすると、イシュマエルは17歳くらいと考えられます。17歳の青年が3歳の子どもをからかっているということですが、その背後にはイシュマエルのねたみのようなものがあったのではないかと思われます。イサクが産まれるまでアブラハムも、サラも、ハガルもみんな、イシュマエルこそが神様が約束していた子孫だと認識していました。それはイシュマエルも同様でしょう。そして、アブラハムもそのつもりで教育をしていたはずです。それが、後から産まれてきた弟が、神様の力によって産まれてきた約束の子孫であったという、どんでん返しが行われているのです。イシュマエルの思いの中に「この子さえ産まれてこなければ」という思いもあったのではないかと思われます。
しかし、この彼の行動が彼自身にもっと良くない状況をもたらすのです。10節でサラがアブラハムに次のように語っています。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」要するに、女奴隷ハガルとイシュマエルを追放するようにとの提案です。サラにしてみれば、イサクは自分がお腹を痛めて産んだ子であるのに対して、イシュマエルは自分の女奴隷によって産まれた子どもです。当然、イサクの方が大切なわけで、イシュマエルがイサクをからかっているのを穏やかな気持ちで受け入れる事は出来なかったということでしょう。しかし、元はといえば、女奴隷によって子孫を得ようというのは、サラがアブラハムに提案した内容でした。原因の根本は彼女自身にあるようにも言えるのにもかかわらず、ここでは一方的に彼らを追い出す提案をしているのです。自己中心的な人間の罪の性質が彼女の姿から見受けられるようにも思われます。
それで、11節ではこの提案について「わかった。そうしよう」と素直に言えないアブラハムの葛藤が記されています。というのも、サラにしてみれば、自分との血のつながりはないけど、アブラハムにとっては自分の子なのです。17年間大切に育てていたでしょうから、無理もありません。しかし、そのようなアブラハムに対して神様は12節で「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」と語られています。サラの提案を神様が評価して、その通りにするように、要するにハガルとイシュマエルを追放するようにということです。この背後にはやはり神様がアブラハムに対して約束された事柄が深く関わっているように思います。アブラハムを祝福するものが、神によって祝福され、アブラハムをのろうものを神様がのろうということですが、それはイサクに継承される約束です。とうことはイサクに対する態度がその人の身にも降りかかって来るということが言えるでしょう。ですから、ここでイシュマエルが追放された理由は彼がイサクをからかっていたからということが言えると思います。たら、ればはないとしても、もしも、イシュマエルが謙遜にへりくだって、この事実を受け入れていさえすれば、このように追放されるようなことにはならなかったのではないかとも思われます。
とはいえ、イシュマエルに対しても神様の守りがなされるというのが、13節の「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」ということから知ることができます。似たような事はイシュマエルの母、ハガルに対して神様が創世記16章10節で「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」と既に語られていました。人間的な知恵といいますか、神様を信頼する思いが欠如しているところから生まれてきたイシュマエルですが、だからといって神様は目を留められないというのではなく、そこにもあわれみをもって守りの手を差し伸べて下さるという、神様のご性質をうかがい知ることができます。
【息子の死を覚悟するハガル】
このようにしてサラの提案について、神様の御思いを確認する事が出来たアブラハムは、行動に出ます。14節で「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。」とあります。いくら神様から言われたことといっても、アブラハムの気持ちは複雑だったことでしょう。水と食料を渡して送り出しておりますが、二人には特に行く宛がなかったのか、途中で道に迷ってしまったのか、15、16節には「皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が『私は子どもの死ぬのを見たくない』と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。」とあります。どうやらイシュマエルが先にダウンしたようです。熱中症にでもなったのでしょうか。水が必要なのに、それがなくもうほとんど死ぬ寸前という状況のようです。
【神の助け】
しかし、イシュマエルに対する神様の約束は先ほど見たように、彼の子孫も多いに増やされ、彼から一つの国民が生まれ出るということですから、そうならないと神様が約束を破ったことになってしまいます。そこで、神様が介入されるのですが、17、18節には「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。』」とあります。ここで神様はハガルとアブラハムに対して約束された事柄を再確認しているということでしょう。とはいえ、この時既に死にそうになっているイシュマエルですので、どのようにして彼の体調を回復させるのかというと、19節で「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。」とあります。このとき、すぐ近くに井戸があったようですが、それまでハガルは気付きませんでした。彼女も疲労困憊の中、愛する息子が大変な状況にあって、冷静にあたりを見渡すことができなかったのでしょう。しかし、神様が彼女に語りかけて下さった事で、十数年前に自分自身に対して語られた神様の約束を思い起こして、冷静さを取り戻したということかと思われます。
このようにして、九死に一生を得たイシュマエルですが、20節には「神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。」とあるように、神様はイシュマエルのことも見放さず、特別な守りの中成長していったということです。そして、21節には「こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。」とありますが、パランというのはシナイ半島の北東部ですので、彼らは南西方面に移動していったことが分かります。ハガルの出身地はエジプトでしたのでそちらの方向に向かっていったということでしょう。そして、イシュマエルにもエジプト人の女性を妻にめとったということです。
【まとめ】
というのが、今日の聖書箇所に記されている出来事ですが、最後にいつものようにここから3つのポイントにまとめて聖書宣教を閉じさせていただきます。
1つめは、神様は笑い(喜び)を与えてくれるということです。高齢のサラから男の子が生まれるという約束が語られた時、アブラハムもサラも「そんなことがあるはずがない」と笑いました。否定的な笑いと言えると思いますが、今日の箇所ではその神様の御業がなされたことで、サラには喜びの笑いがもたらされたのです。同じように神様が私たちに対して提供して下さる祝福も、一時的には辛いところを通ったとしても、最終到達点は喜びの笑いをもたらしてくれることでしょう。最近何度か触れている「御霊の実(ガラテヤ5章22,23節)」の2番目の項目に「喜び」というのがあげられています。それは神様が聖霊の働きによって私達にあたえて下さる人格的な祝福であり、神の業としてもたらされるものということができます。
それに対して、人間の知恵や判断に基づく行為は、やはりどこか不完全で、トラブルをもたらすことがあるのです。ですから、2つめのポイントとしては、人間の知恵はかえって問題をひき起こすことがあるということをあげさせていただきます。ハガルによって子孫を得ようというアイディアはサラによるものでしたが、それによってハガルは身ごもったものの、ハガルとサラの関係は微妙なものとなり、創世記16章でハガルが家出までしておりました。その時は神様の介入があって彼女は家に戻ることができましたが、今日の箇所ではイシュマエルがイサクをからかうという事がおきて、サラがハガルとイシュマエルの追放を提案するに至っています。サラの提案さえなければ、忍耐強く待ち続けることができていればとも思いますが、このことについても神様の主権のうちになされている事と考えるなら、そこから私達に教え諭そうとしておられる事があるのでしょう。そのような視点で考えると、私達にも似たような弱さがあるという事が言えると思います。第1コリント10章11節に「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とあります。この聖書箇所について直節的にはイスラエル民族が荒野で40年間放浪した時の事を言っているものですが、聖書に登場する人たちに関してほとんどの人は何らかな弱さがあったり、失敗を犯したりしています。それは反面教師として、私達にもそのような弱さがあるが故に、同様の間違いを犯すことのないようにということを目的としていると言えるでしょう。
このように私達は不完全で間違いうる人間ではありますが、だからといって、その事で自己卑下したり、恐れたり、思いわずらったりするのは違うでしょう。今日の箇所でも神様はイシュマエルに対しても豊かなあわれみを注いでおられます。ですから3番目のポイントとしては神様はあわれみ深いお方ということをあげさせていただきます。神様を信頼できずに人間的な策略によってもたらされた結果でありながらも、神様はそれを受け入れて、しかも豊かな祝福を注いでおられるのです。今日の中心聖句としては、詩篇145篇9節を選ばせていただきました。「【主】はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」イシュマエルへのあわれみということについては、彼がアブラハムの息子だからという理由はありますが、そのようなあわれみが注がれるのはアブラハムとその子孫だけではありません。この中心聖句にあるように「造られたすべてのもの」に対して注がれているのです。
逆に神様があわれみ深いお方でなかったら、誰ひとりこの世に存在し得ないでしょう。不完全さ、弱さ、失敗について神様が寛容でなく、簡単に切り捨てられてしまうのであれば、私達は皆、とっくの昔に滅ぼされてしまっていることでしょう。しかし、そのような私達だからこそ、救いが必要なのであって、その為に神様がひとり子イエス・キリストを十字架につけて、私達の受けるべき罰を代わりに負わせられたのです。今日はこのあと聖餐式を執り行います。イエス・キリストの十字架の犠牲を覚えて、パンと杯にあずかるのですが、今日は特に神様があわれみ深いお方であることを深く心に覚えなから、聖餐式に臨んでまいりましょう。