創世記 19章30〜38節     モアブ人とアモン人

【文脈確認】
 先週の礼拝の聖書宣教では、創世記19章29節までで、ソドムの町が滅ぼされた時の出来事を見てまいりました。当時ソドムに住んでいたロトは御使い達から、身内を連れて逃げるように言われたのですが、すぐにそうすることなく躊躇していたので、御使いはロトとその妻、および二人の娘達の手を引いて、ソドムの町の外に連れ出しました。その時、御使いは彼らに立ち止まることと、後ろを振り返ることを禁止しておりましたが、ロトの妻は後ろを振り返ったことで、塩の柱になってしまいました。そして、当時ソドムのあった場所は、現在のイスラエルの東側にある死海の下に沈んでしまったということのようです。
 そして、その時ロトと二人の娘は御使い達から山に逃げるように指示されていましたが、ロトがとてもそこまで行き着くことはできないと考えて、御使いらの許可を得て、ソドムの町からほど近いツォアルという町に逃げて行ったというのが、先週の聖書宣教の箇所です。

【山に移動】
 そして、今日の箇所、創世記19章30節には「その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。」とあります。ということは、結局は最初に御使い達が行くようにと指示していたところに落ち着いたというようにも考えられるでしょうか。彼らがツォアルに落ち着くことができなかった理由について「恐れた」とあるだけで、詳しくは述べられていませんが、そこから山に移り住んだということは、結局御使い達に言われていた事の方が良かったということなのでしょう。
 先週の礼拝の最後に、ローマ人への手紙8章28節のみことばを紹介しました。そこには「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。全てのことが益とされる条件は、神の計画に従うということが言えるでしょう。ですから、ロトはこのとき、自分の願いとしてツォアルに住むようにしたのですが、ほどなくそこでの生活から離れて、以前に御使いが行くようにと語られた山に移動したというのは、神の計画に従ったというようにもとれるでしょうから、賢明だったとも言えるかもしれません。

【子孫誕生】
 しかし、31節以降、ちょっとショッキングな出来事が記されています。ロトの二人の娘がロトと肉体関係を持つことで妊娠、出産したということです。きっかけは31節のお姉さんのことば「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」ということです。目的は子孫を残すということであり、この姉の計画はうまくいったようです。ロトはあまり酒癖が良くなかったのでしょう。そして、34節にはその次の日のことが記されており、やはり姉が妹に次のように語っています。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」そして、この日も姉の計画はうまくいき、36節に「こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。」ということです。
 そして、その時に産まれた子どものについて、37節では姉の子どもがモアブ、38節では妹の子どもがベン・アミとの名前が記されています。ちなみにこの名前にはそれぞれ意味があって、モアブというのは「メーアブ」という「父から」とか「父による」というもの、ベン・アミは「自分の肉親の子」というものです。
 淡々と書き記されていますが、私たちの常識から考えると、相当不自然な事が起きているような感覚がするのではないでしょうか。要するに近親相姦というもので、現在はどの国でも法律に触れる事になるようです。また、聖書の中にもレビ記18章の前半に、このような関係が禁止されています。
 しかし、人類の歴史をさかのぼって、アダムとエバの子どもたちの事を考えると、彼らの子どもたち、要するにアダムとエバの孫達は、兄と妹という関係で結婚して産まれた子どもであるはずです。なにしろ、それ以外に相手がいないのですから、近親者同士で結婚する事なしに、子孫が生まれ出てくることはあり得ません。ですから、近親相姦が禁止されるようになったのは後の時代に入ってからということが言えるでしょう。
 ちなみに、現代の法律で近親相姦が禁止されている理由としては、血縁の近い両親から共通の劣性遺伝子を引き継ぐ可能性が高まり、そうなると子どもは先天性異常を持って生まれることが多いという事があるようです。実際に近親相姦によって産まれた子には奇形児が多かったり、死産だったりということがあるようです。こうなる理由は遺伝子の損傷によるものだそうです。生まれて来る子どもは両親のそれぞれの遺伝子を半分ずつ受け継いできますが、どちらかの遺伝子に損傷があっても、もう一方の親の遺伝子がその部分で問題がなければ、それによって補われて障害にはなりませんが、両方の親が共に同じ部分の劣性遺伝子をもっていると、その部分が表面化され先天異常になるということのようです。
 ですから、近親相姦が禁止されている理由は、先天異常児の誕生を回避するためであり、それは人は劣性遺伝子を持っているという大前提によるものです。しかし、最初に神様が人間を作った段階で遺伝子の損傷などはなかったはずです。それが、長年の生活の中で様々な要因から遺伝子に異常がもたらされてきたということでしょう。モーセに律法が啓示されたのは紀元前1300年頃で、アブラハムやロトはそれから600年も前の事になります。またアダムとエバは、そこからさらに2000年程以前の人たちです。ロトと娘との間で産まれた子どもに先天異常児が誕生する可能性が、どれほどあったかは分かりませんが、少なくとも律法によってこのような関係が禁止されるよりも、600年ほど前の出来事です。ですから、このロトと娘達の行為自体が即、悪であるという評価はできないでしょう。実際に今日の聖書の記述を見ても、このことを否定的な事として紹介しているようには見受けられません。
 とはいえ、正常な状態ではないということも言えるでしょう。というのも、この娘達にしてみれば、父と関係を結ぶということについて、それが後ろめたい発想でなかったら、わざわざ父親に酒を飲ませて眠らせてから事を行うということをする必要は無かったはずです。子孫を残すための方法を姉妹で相談するのではなく、父親と相談しても良かったはずでしょう。しかし、彼女らが父親に酒を飲ませて寝かしたということは、父親から反対されることが予測されたからであります。実際に今日の箇所でも33節で姉と、35節で妹と関係を持ったときの様子として「ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。」と言われています。おそらく、このことをロトが気付いていたら、拒んでいたということでしょう。
 ですから、このことについて、まとめさせていただくとすれば、必ずしもこの時のロトと娘達の関係は悪とか罪であるとは評価できないけれど、正常な関係ではないということは娘達も認識しており、ロトからは反対される可能性があったということです。

【モアブ人とアモン人】
 そして、このようにして産まれたモアブとベン・アミですが、それぞれモアブ人とアモン人の先祖であるということです。それで、聖書の中にモアブ人、アモン人というのはイスラエル民族との関係で、旧約聖書の中に繰り返し出てきますので、今日の聖書宣教の後半ではこの民族について聖書の記述を見てまいりたいと思います。
 まず、申命記2章18、19節ですが「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。」とあります。これは神様がモーセに対してしめされた事を民達に語っている内容で、タイミングとしてはイスラエル民族が荒野での放浪生活を終えて、今からまさに約束の地カナンに入っていこうとしている時にモアブ人とアモン人の領土を守るようにという指示です。その理由が「ロトの子孫に、それを所有地として与えているから」とあるように、この段階で彼らはロトの子孫であるという理由から、特別な守りが神様によってなされているという事が言えるでしょう。
 しかし、申命記23章には、イスラエル民族に対して、アモンとモアブの人たちについて次のような事がいわれています。3節に「アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。」とあります。要するにアモン人とモアブ人の礼拝を神様が受け取られないということで、その理由が4節で「これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。」とあります。これは民数記22〜24章に記されている出来事で、モアブの王バラクが、預言者バラムを雇ってイスラエルをのろわせようとした事がありました。とはいえ、それは未遂に終わったのですが、イスラエルをのろおうとしたことは事実です。また、その後の25章にはモアブの娘達がイスラエルの人たちと関係を持つ事で、モアブ人が拝んでいた偶像礼拝の影響をイスラエルが受けるようになったという事がありました。また、レビ記18章21節には「また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。」とありますが、ここで登場する「モレク」というのが、アモン人が礼拝していた偶像の神です。このように神様が忌み嫌うような文化が彼らの中にあったことで、彼らと関わりを持つことがないように、アモン人とモアブ人が排除されていたと考えられます。
 しかし、士師記10章6節には「またイスラエル人は、【主】の目の前に重ねて悪を行い、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは【主】を捨て、主に仕えなかった。」とありますので、彼らの拝んでいた偶像礼拝の影響は、イスラエルの人たちにも、もたらされていったということがわかります。
 では、現在このモアブ人、アモン人という民族はどうなっているのかというと、彼らをルーツとしている個人は存在しているでしょうが、民族としてのモアブ人、アモン人というのは、既に失われているようです。要するに民族としての独自性が確保されることなく、他の民族、国家との混合によって、分からなくなっているということです。ですから、モアブ人、アモン人は結局、歴史から消えてしまった民族と言えるでしょう。実際に新約聖書にはモアブ人、アモン人は登場しておりませんので、イエス様の時代には既に民族として失われていたということのようです。

【イエス・キリストの系図】
 しかし、新約聖書の記述の中にも彼らの存在というか、イエス・キリストとの関わりの中で触れられている部分がありますので、その箇所を紹介します。
 マタイの福音書1章はイエス・キリストの系図が記されており、その5〜7節には「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、…」とあります。モアブ人もアモン人も登場していないと思われるかもしれませんが、実はこの部分にこの二つの民族と関わりの深い人物が記録されているのです。
 まずモアブ人については、5節に登場するルツがモアブ人です。ルツ記1章1〜4節には「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。」とあります。ナオミとエリメレクの間に産まれた息子の結婚相手がルツだったということで、ここにモアブ人が登場しています。
 次に、アモン人は7節のレハブアムという王様の母親がそうでした。第一列王記14章21節に「ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。レハブアムは四十一歳で王となり、【主】がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アモン人であった。」また、31節にも「レハブアムは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともにダビデの町に葬られた。彼の母の名はナアマといい、アモン人であった。彼の子アビヤムが代わって王となった。」とあります。レハブアムはソロモンの子どもですが、彼を紹介するのにわざわざ、彼の母がアモン人であったと紹介しているのです。ソロモンについては第一列王記11章3節で「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」とあります。この妻達については1節に「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。」とあります。ソロモンはずいぶん多くの国から妻をめとっていたようです。しかし、それが彼にとっての罠となり、4、5節には「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。」とあります。700人の妻をめとったソロモンでしたが、外国人の妻を持つことで、彼の気持ちが本当の神様から離れてしまったわけですが、その中の一人がナアマというアモン人であって、レハブアムはその母から産まれた子どもでした。その彼がイエス・キリストの系図に登場しているのです。
 では、このことにどのような意味があるのかということですが、まず民族的に排斥されていたとしても、それは個人的なものではないということです。レハブアムの母、アモン人ナアマについての詳しい情報は聖書から得ることはできませんが、モアブ人のルツについては、彼女の誠実さがルツ記から教えられます。彼女らが神様から受け入れられたということが、イエス・キリストの系図に名を連ねているということから言えるでしょう。
 また、あえて神様がそのような人たちを選ばれたということであるのなら、神様のあわれみ深さを知ることができます。申命記23章3節に「アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。」とありましたが、レハブアムからイエス・キリストまで20代以上離れていますので、神様はこのことばを反故としたということではないと思います。かえって、彼らの子孫としてイエス・キリストを誕生させたということは、神様はそのような彼らにも回復を与え、あわれみと恵みを持って、祝福として彼らの子孫として救い主を誕生させたということでしょう。そして、そのような彼らが祝福を受けているのだから、私たちも神様の恵みにもれることはないということが、この系図から言えることであり、神様はこのイエス・キリストの系図を通して、そのことを私たちに伝えようとしていると考えられます。

【まとめ・結論】
 以上が、ロトの娘達から産まれたアモン人、モアブ人について考察されることでしたが、最後にいつものように3つのポイントにまとめて聖書宣教を閉じさせていただきます。
 まず、イスラエルをのろう者はのろわれるということですが、せっかくソドムの町の滅亡から逃れられ、神様の特別な配慮によって守られたロトの子孫、アモン人とモアブ人でしたが、後に彼らがイスラエル民族をのろおうとしたり、彼らの行っていた偶像礼拝をイスラエルにもたらしたことで、彼らが神様から排除される事になってしまいました。それは、神様がアブラハムと約束した契約によるものと言えるでしょう。創世記12章3節で神様はアブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」といわれております。この約束が、アブラハムの子孫へと受け継がれていったのですが、民数記22〜24章でモアブ人はイスラエルをのろって滅ぼそうとしました。それゆえ、逆にモアブ人が滅ぼされるに至ったということができるでしょう。この「アブラハム契約」に則って神様はそれぞれの人たちを取り扱われるという事が言えます。他にも聖書の中にはこれと似たような例が出てきますし、私たちの歴史を振り返ってみても、このアブラハム契約によるものと判断出来る出来事が多く見受けられます。これについては、また何かの機会で詳しく取り上げてまいりたいと思っております。
 そして、2つめのポイントとして、民族的のろいと個人への影響は別という事です。アモン人とモアブ人がのろわれた民族だからという理由で、それに属する人が救われないのではありません。特にイエス・キリストの系図に登場しているルツはモアブ人ですが、ルツ記から彼女個人の姿を見るのなら、神を恐れる誠実な信仰者であります。そして、彼女からダビデ、ソロモンと続くイスラエルの王の家系が生まれ、イエス・キリストへとつながっているのです。民族的にはアモン人は失われてしまいましたが、その中にも個人として神様との正しい関係にある人には、神様がそのように応答して下さるといことは言えるはずです。
 とはいえ、アモン人、モアブ人であるということ自体はアブラハム契約故に、神様ののろいの元にあるわけですが、その処理についてどうなっているのかというのが、3番目のポインとして、イエス・キリストが全てののろいをその身に受けられたという事です。ガラテヤ3章13節の前半を今日の中心聖句とさせていただきましたが、ここには「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」とあります。十字架でイエス・キリストが受けられた苦しみは、本来ならのろいを受けた者がその人自身の罪ゆえに受けなければならないものでした。それをイエス・キリストが身代わりに受けて下さったということです。
 この世界に救われて当然の人は誰ひとりいないのです。例えば、皆から尊敬され、人格的にも素晴らしく、慈善事業に対して積極的に取り組んでいる人であっても、皆共通に罪人であり、滅んで当然なのです。残念ながら神様が要求している基準に達している人は皆無です。すべての人はその人が罪人であるがゆえにのろいの元にいるのです。
 しかし、それを解決して下さったのが、私たちの受けるはずだった罰を身代わりに受けて下さったイエス・キリストの十字架であり、その歴史的事実と自分自身の関係を正しく理解したものに、神様がそこからの救いを提供して下さっているのです。
 その人がどんなに、弱さや欠けがあって、人からさげすまれていたとしても、その人が自分の問題を認めて、それによって自分自身が受けるはずの罰を、イエス・キリストが身代わりに受けて下さったと、心から信じて受け入れているのなら、罪ののろいからは解放されているのです。
 そして、神様から差し出されているこの素晴らしいプレゼントを感謝して受け取るのが、その祝福にあずかる唯一の方法です。プレゼントというものは受け取った方も嬉しいですが、それを与える側にとっても、相手が喜んで受け取って下さる事で喜びを感じられるものでしょう。今日ここに集われた全ての方々が、神様の差し出して下さっている、そのプレゼントに感謝して受け取ることで、私たちと神様の両方に豊かな喜びが訪れる事を心から願っております。