創世記 19章15〜29節     ソドムの滅び

【文脈確認】
 先週の礼拝の聖書宣教では、創世記19章の前半からふたりの御使いがソドムの町を訪れて、ロトの家でもてなしを受けた箇所を学びました。出来事をちょっと振り返りますと、その日の夕方、ソドムの町の人たちがロトの家にやってきて、その御使い達を暴行しようとしました。ロトに彼らを差し出すように求めましたが、ロトは身を挺して御使い達を守ろうとしています。しかし、それで聞くようなソドムの人たちではなく、かえってロトが被害に遭ってしまいそうになったのですが、それをふたりの御使いが助け出しました。そして、それによってソドムの町が滅ぼされる事が決定的になったようで、御使いがロトに対して、身内を連れて逃げるように指示しています。ところが、ロトが娘婿にそのことを伝えたけれど、彼らは冗談だと思って、聞き入れることをしなかったというのが、先週の聖書宣教の内容でした。

【夜明けの頃】
 そして、今日の箇所、創世記19章15節には「夜が明けるころ…」とあります。ということは、ロトは夜通し自分の身内を説得しようと交渉していたということかもしれません。しかし、結局は誰も聞き入れてもらえなかったようです。御使い達はロトに「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」と語ります。ここには妻とふたりの娘だけが登場しておりますが、これはロトと一緒に住んでいた人たちで、前の日の夕方、御使い達と一緒にパン種を入れないパンを食べた人たちということになるでしょう。先週の箇所19章12、13節でも御使いは「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」と、語っておりました。御使い達をもてなした彼らでさえも、このままソドムの町に残っていては、危ないということです。
 ところが、16節の前半には「しかし彼はためらっていた。」とあります。彼がためらっていた理由についてははっきりと記されてはいませんが、色々と考える事はできると思います。先週の箇所で複数の娘婿がロトの警告を聞き入れてもらえなかったということは、複数の娘が彼らといっしょにいる事になります。ここでロトが逃げるというのは、その娘達をソドムの町に置いていくという事になってしまいますので、それを躊躇しているということ。または、彼自身が所有していた様々な財産についてどうしたものかと決めあぐねていたということもあり得るでしょう。創世記13章5,6節によると、アブラハムとロトが別れたのは、彼らの持ち物が多くなってしまったことというのが理由として挙げられていました。また、創世記14章によると、ソドムの町が他の国から攻められたときに、ロトの財産も被害にあったということが記されています。これについては、後にアブラハムの活躍によって取り戻すことができているので、この創世記19章の段階でも、ロトはある程度の財産は所有していたことになるでしょう。この時にロトがソドムの町を離れるということは、それらを全て放棄することになります。それがためらいとなっていた可能性もあるでしょう。または、本当にソドムの町が滅ぼされるのかということについて、完全に信じていたわけではなかったのかもしれません。
 理由はどうあれ、そのようなロトの心の状態は決して良いものではないでしょう。そして、そのままためらっていてはどうなっていたのか、この先の状況を既に知っている私たちにとっては想像に難くありませんし、御使い達にしてみれば、せっかく助けてあげるために、ロトにこのことを伝えたにも関わらず、このままではその目的も果たすことができなくなりかねないのです。それで、16節の続きを見ると「すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。‐‐【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」とあります。御使いは二人おりました。手はそれぞれ二本ずつなので、ちょうど4人の人の手をつかんで連れてくることができます。ロトとその妻、および未婚のふたりの娘達で合計4人、ちょうどです。彼らがふたりの御使いによって、ソドムの町の外に連れ出されたということです。
 ちなみに、ここに「【主】の彼に対するあわれみ」という表現がされていますが、あわれみとは、本来なら受けなくてはならないはずの罰やわざわいなどの不利益が帳消しにされるという意味のことばです。ですからソドムの崩壊によって、ロト達に被害が及ぶことがないように、そうされたということです。

【ツォアル】
 しかし、ソドムの町の外に出ることができただけで、既に安全になったということではないようです。17節によると「彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。『いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。』」ということです。ここから、ソドムが滅ぼされる時の影響がその近隣にももたらされるという事が分かります。禁止されている事が後ろを振り返ることと、立ち止まることです。勧められているのが、いのちがけで逃げること、山に逃げることです。そして、そうしないときにどうなるのかというと「滅ぼされてしまう」というのです。
 しかし、そのように語る御使いに対して、ロトは18〜20節で次のように語ります。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」この段階で、まだソドムの状況は何も変わっていなかったようです。16節で逃げることをためらっていたロトが今度はわざわいを恐れています。御使いは山に逃げるように勧めていますが、とてもそこまで行き着くことができないだろうというのです。
 そして、御使いもロトの申し出を受け入れ、21、21節で「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」と言っています。そして22節の後半には「それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。」とありますが、この町の名前の由来がここにあるということです。それは、ロトが御使いに対して20節で「ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。」と語っており、強調しているのは「小さい」ということです。おそらくソドムの町は相当大きかったのでしょう。それに対して、ロトが避難したいと言っているのはその近くの小さい町で、そこはおそらく、まだソドムの町のような悪い影響はあまりなかったのでしょう。そして「小さい」というのはヘブル語で「ミツァル」という単語です。ロトが、その町を指して「ミツァル・ミツァル」と言っていたことから「ツォアル」と呼ばれるようになったということのようです。
 そして、エレミヤ書48章にも「ツォアル」という地名が登場しており、それからツォアルが現在の死海の南東の淵あたりにあった町であろうと推測されますが、元々大変小さな町だったようですから、特に遺蹟にもなっていないようです。そして、この時滅ぼされた、ソドムの町の詳しい場所については、判断することはできません。というのも、それらしい遺跡も何一つ残っていないようです。ツォアルの遺蹟が残っていないのは、小さい町だったからでしょうが、ソドムの町はそれなりのサイズもあったであろうと推測されますが、そのソドムの遺跡が残っていないといことは、相当徹底的に破壊されたということでしょう。また、ソドムのあたりは低地だったという事は分かっていますので、そのあたりの低地というと、まさに現在の死海のあたりは低い地域ですので、このソドムの滅亡によって死海ができたというようにも考えられるかもしれません。

【ソドム滅亡】
 実際に、聖書の記述を見ると、そのように考えられないこともないと思います。24、25節によると「そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。天から降ってくる硫黄の火というと火山の爆発のようなものが連想されるでしょう。そして、26節には「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」とあります。死海というと、塩の海であります。比重が人間よりも思いので、人が死海に入ると身体が浮かびます。ソドムに住んでいた人たちが皆、塩の柱になってしまったとしたら、それが死海の塩となって現代に至っているという説明にもなるのではないでしょうか。また、死海の近くにはこれがロトの妻が塩の柱になったものではないかと言われているものがいくつかあるようです。
 そして、ロトの妻が塩の柱になってしまった理由が「振り返ったので」とあります。確かに17節には御使いがロトに対して「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」と語っておりました。そうであるにもかかわらず、ロトの妻は振り返ってしまったから、御使いのことばの通り滅ぼされ、塩の柱になってしまったということでしょう。ただ、この時ロトの妻が振り向いてしまった理由について、聖書には触れられていません。興味本位でちらっと見てしまったとか、硫黄の火が降り注いで爆発などしていたとしたら、その音に驚いて振り向いてしまったということではないでしょう。というのも、その程度で塩の柱になってしまうとしたら、神様は無慈悲な方だと思います。滅んでしまうというのですから、それには相当の理由があるはずでしょう。そのように考えると、ロトの妻の降り向きには滅ぼされても仕方のない何かがあったはずです。それは彼女の心の問題が行為によって現されたということだと思います。考えられる理由としては、彼女はソドムの町での生活に未練があったということかもしれません。または、自分の家に置いて来た財産などをもったいないと思ったか、それだけではなく、一旦取りに戻ろうとして振り返ったという可能性もあるでしょう。どうであったとしても、彼女の心の状態が「振り返る」という行為によってあらわされたのであって、それが元で彼女が塩の柱になってしまったということでしょう。

【翌朝】
 そして、27節以降には翌朝のアブラハムの姿が記述されています。27節には「翌朝早く、アブラハムは、かつて【主】の前に立ったあの場所に行った。」とありますが、18章22節に「アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。」とあることで、そこからはソドムの町を見下ろすことができました。ですから28節で「彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」とあるように、アブラハムはソドムの町が滅ぼされたという事が分かったでしょう。そして、その時、アブラハムは10人の正しいものがいれば、ソドムの町は滅ぼされないということが確認されていたので、ソドムには10人の正しい人がいなかったということが明らかにされたことになります。
 そして29節には「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」とありますが、神様がアブラハムを覚えていたからロトが助け出されたという関係が語られていますが、それは18章25節でアブラハムが神様に対して「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」と訴えていたことによるでしょう。要するに、正しいものが悪いものと一緒に滅ぼされるような事はないということがソドムの滅亡と、そこから助け出されたロトという関係で確認されるということです。

【まとめ・適用】
 ということが、今日の聖書箇所に記されている出来事でしたが、最後にいつものように3つのポイントによるまとめを紹介して聖書宣教を閉じさせていただきます。
 まず、ひとつめ、罪の結果は滅びであるということです。ソドムの町はこの時、徹底的に破壊されました。その様子が25節で「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」ということです。創世記18章20節には次のような神様のことばが記されていました。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」それを確認するためにふたりの御使いが、ソドムに向かいましたが、その時の出来事が19章の前半で、御使いやロトに対して暴行を働こうとしたということがありました。おそらく、その事がソドムの町が滅ぼされる決定的な出来事となったと捉えることができます。
 しかし、このことでもう一つ覚えておきたいのが、正しいものは守られるということです。さきほども確認しましたが、18章25節でアブラハムが神様に対して「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」と語っており、ソドムの町は徹底的に滅ぼされましたが、ロトがその被害にあうことがないように、御使いがロトとその家族を助け出しているのです。この1つめと2つめのポイントが次の聖句にまとめて語られています。これをほんっじつの中心聖句とさせていだだきましたが、箴言29章16節に「悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。」とあります。ソドムの人たちとロトやアブラハムの対比がこのみことばで現されているということができるでしょう。
 しかし、御使いに手を引かれて、助かるはずだったロトの妻は塩の柱になってしまいました。その理由として「振り返ったので」と記されています。ですから3番目のポイントとしては、後ろを振り返ってはいけないとさせていただきます。彼女の問題はソドムの町の崩壊をもったいなく思ったか、残された自分の財産に対して未練があったか、詳しいことは分かりませんが、彼女の心に問題があったという事が言えるでしょう。イエス様もルカの福音書9章62節で「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」 とお語りになっておりますし、使徒パウロもピリピ人への手紙3章13、14節で自分の信仰姿勢に対して「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と証ししております。
 私たちの生活している現代のこの世界は、当時のソドムの社会とそれほど大きく変わっていないようにも感じます。そして、いつかは神のさばきによって悪が滅ぼされる時が訪れます。しかし、正しいものには神様の守りがあるのです。ここでいう「正しい」とは罪を犯していないとか、聖人君子であるということではありません。神様との関係における正しさであって、神に対する信仰があり、信じて従っているという者です。そのような正しい者はロトがソドムの崩壊から守られたように、神様によって守られるのです。しかし、今日の箇所でロトも妻が御使いに手を引かれながらも、振り返ったことで塩の柱となり滅んでしまいました。招かれていながらも、それに応答してなかったということでしょう。
 ローマ人への手紙8章28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。全てのことが益とされる条件は、神を愛すること、神の召しに従うということです。神様に対する正しい恐れをもって、神様との正しい関係による義をいただく事で、滅びから免れ、神の守りのうちにある平安をいただく私たちでありますように。