創世記 19章1〜14節     ソドムの人たち

【二人の御使い、ソドムに到着】
 最近の豊明希望チャペルの礼拝式の聖書宣教では、創世記の記述を順番に見て行っております。そして、今日は19章からですが、冒頭1節に「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。」とありますが、誰の事をいっているのか、前の部分を見てみなくては分かりません。この人達は18章でアブラハムのところを訪問した3人の旅人の中の二人です。彼らはアブラハムから尋常じゃないご馳走のもてなしを受け、その後ソドムの街が滅ぼされる予告が語られました。その時一人だけアブラハムのところに残りって、二人はソドム町に向かっていきましたが、今日の箇所で彼らが「御使い」であったということが分かります。

【2人をもてなすロト】
 1節のこの続きには「ロトはソドムの門のところにすわっていた。」とありますが、ロトはアブラハムの甥にあたる人物で、しばらくアブラハムと生活を共にしてきましたが、持ち物が増えてきたことで一緒に生活するのが難しくなって別々に生活することになりました。その彼が住んだのがソドムの町で、ここに「門のところに座っていた」とあることから、その町でそれなりの影響力を持つ人物となっていたということが分かります。創世記14章から、ソドムの町が他の国に教われたときに、アブラハムが助けたということが記されています。アブラハムがソドムの人達を助けた理由が、そこに甥のロトが住んでいたからでした。そのような事から、ロトがソドムの町の人達から一目置かれるようになって、その町で影響力を持つようになったということが考えられます。
 そして、1節の後半には「ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とあります。18章1節にはアブラハムが彼らを迎えたときの様子として「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。」とあります。アブラハムの行為はこの旅人達に対して、他の人とは違う何かを感じていたであろう事が考えられますが、それはロトにとっても似たようなものだったようです。ほとんどアブラハムと同じようなスタイルでこの旅人を迎え入れているのです。
 そして、彼が語っているのが2節で「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」とあります。1節の記述によると、既に夕暮れですから、どこか寝る場所が必要になります。その場所の提供をロトが申し出ているのですが、これに対して二人の御使いは「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」と断っています。要するに野宿しようとしていたわけですが、この後起きた出来事から考えると、もしも彼らが広場で寝たとしたら、ソドムの住人達に襲われていたであろう事が予測できます。それは、この時のロトとしてもそのように考えていたはずです。だから、そうならないために3節で「彼がしきりに勧めた」ということでしょう。そうして、二人の御使いはロトの家にお世話になるのですが、3節後半に「ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」とあります。このとき振る舞われたご馳走の中に「パン種を入れないパン」が含まれています。これは要するに天然酵母、イースト菌を入れずに、発酵させないで作ったパンですが、その理由はこの時既に夕暮れでパンの発酵を待っているだけの時間がなかったということが理由でしょう。この時すでに随分遅い時刻であり、ロトが急いで食事を提供したという事が分かります。
 ところで、パン種を入れないパンが聖書中に登場するのは、実はここが最初なのです。また創世記の中ではここだけです。しかし、私たちにしてみれば、この「種なしパン」というのはちょっと特別な意味を持つものという印象があるでしょう。これについては聖書宣教の最後に取り上げますので、少々お待ち下さい。

【ロトの家を訪問するソドムの人達】
 そのようにして、皆で食事を済ませた頃でしょうか。4節には「彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。」とあります。彼らの目的として、5節でロトに対して次のように叫んでいます。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」ここにある「知りたい」という表現は、性的な肉体関係を表すものです。ロトの家のまわりに集まったソドムの町の人達は、そのような屈折した性的興味があったということです。神様が人間に対して与えられた文化命令というものに「生めよ。ふえよ。地を満たせ(地に満ちよ)。」というのがあります。箇所は創世記1章28節でアダムに対して、9章1節でノアに対して語られています。そして、これを行うためには、男性と女性で結婚しなければなりません。だから男性同士で関係をもっても産み増え広がることはできないので、神様の文化命令に対する反抗というように言えます。そして、ローマ人への手紙1章27節に「男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり…」とあります。またソドムの人達のこのような状態からソドミー(Sodomy)という英語が作られたそうで、それは不自然な性的行動を意味します。
 ちょっと余談ですが、ソドムの町が滅ぼされるに至った問題の1つとして、この同性愛があげられます。そして、現代ではそれが認められるような風潮が出てきているようです。実際に、つい最近3月31日に東京都渋谷区で同性カップルを結婚に相当する関係と認め、パートナーとして証明するという条例が成立しているのです。ソドムの問題とあまりにも似通っているように感じます。ソドムの問題を嘆き、滅ぼそうとされた神様が、現代のこの私たちの住む世界をご覧になったときに、ほぼ同じ感覚を持たれているのではないでしょうか。

【ロトの対応】
 ともかく、この時ロトが二人の訪問者を彼らに引き渡したらどうなるのかは明らかです。ですから、この時のロトの対応は6節で「ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。」ということで、家から一人だけ外に出て、彼らを説得しようというのです。そして7,8節でロトは「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」と語ります。この二人の旅人を渡すわけにはいかないので、その代わりとして自分の二人の娘を提供するというです。とんでもない条件をロトが提示しているとも捉えることができ、ここからロトに対して悪い評価がされることがあるのですが、第2ペテロ2章7節で、ロトは「義人」と表現されています。ですから、この時のロトの提案に対して弁解をするとすれば、究極の選択と言えるかもしれません。というのも、男性同士で関係を持つよりは、男と女の方がまだましという発想であり、そうでもしないととても聞き入れてもらえないような人達が、この時ロトの家にやってきたということであったかもしれません。
 程度の違いはありますが、聖書の中に大きな罪を犯さないために小さな罪が許容されているという箇所があります。具体的には、人間のいのちを守るために嘘が語られているという事ですが、出エジプト記1章15〜21節に登場する助産婦、ヨシュア記2章1〜21節のラハブがそれに当たります。どちらも正しいことを語っていたら、人のいのちが失われていたということから嘘をついているのですが、それが積極的な評価を受けているのです。
 また、他人の為に自分の身内を犠牲にするという行為は、実は神様ご自身が行っていることであります。父なる神様はひとり子イエス様をこの世に遣わし、私たち人類の身代わりにいのちを落とさせたました。これも単純に比較できるる内容ではないと思いますが、この時のロトの提案を考えたときに、神様が私たちの為にして下さった犠牲を思い起こします。
 とはいえ、結婚していない自分の娘を暴徒の前に差し出すということを神様が良しとすることはないようです。今日の箇所9節では、ロトの申し出が却下され、その矛先がロトに向かっています。彼らは「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」と言っています。そして、ロトのからだは押さえつけられ、絶体絶命の状態です。

【二人の御使い】
 ところが、10節には「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。」というのです。家の中にいた二人の御使いが一旦外に出てきて、ロトを助けだし無事に家の中に戻ってこられたのです。そこにいたはずの大勢の暴徒たちに捕まらなかった理由が11節で「家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。」ということです。
 そのようにして、暴徒達がロトの家から去っていき、家の中で二人の御使いはロトに対して次のように語ります。12、13節で「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」とあります。ここで、この御使いたちがやってきた目的がロトに告げられます。しかし、ロトとその家族が巻き添えにならないように、ロトに対して身内にこのことを告げるように伝えています。そして、ロトもこの御使いたちのことばを信じて、14節で娘達をめとった婿達のところに行き「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」と語ります。ところが、これを聞いた娘婿たちの反応は、14節の後半で「彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」というのです。
 この娘婿達の姿に、ソドムの町に住んでいる人達の典型があるような気がします。神様の存在を認める事がなければ、その方からのさばきについてもありっこないと思うでしょう。または、神様の存在を認めていても、自分たちの行っている事が「悪いこと」だという認識がなければ、さばかれる理由が分からないはずです。または、神様の存在を認めて、自分たちのしている事の問題に気付いていたとしても、その神様がその事についてさばきを下すようなことをしないと考えているのであれば、ロトの警告を受け入れる事はしないでしょう。そのいずれかだと思いますので、彼らにとって必要な事は、神様の存在を認めること、そのお方の前に、自分たちのしている事が罪であることを知ること、そしてそれを正しく処理しなければさばかれるという神様のご性質を知ることです。そのどれかが欠落していることによって、ロトの警告が冗談と捉えられてしまったと考えられます。

【まとめ・適用】
 ということが、今日の聖書箇所に記されている出来事でしたが、最後にいつものように3つのポイントのによるまとめを紹介させていただきます。
 まず1つめ、他人が被害にあう可能性があるなら伝えるということです。二人の旅人がソドムを訪れて、野宿しようとしたとき、ロトは彼らを自分の家に泊まってもらうようにしきりに勧めました。それは、そのまま放置すると、彼らが襲われることが予測できたからです。同じように、私たちもいつかはこの地上生涯を終えなくてはなりません。その時までに神様と自分との関係を正しいものにしておかなければ、その先は永遠の滅びです。ローマ人への手紙6章23節の前半には「罪から来る報酬は死です。」と記されていますが、私たちは罪人なので、このままでは永遠の死、滅びが訪れるのです。しかし、この問題には解決が提供されています。この節の後半には「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある 永遠のいのちです。」とあります。イエス・キリストを信じる信仰によって、罪による滅びから免れて、永遠のいのちに至る祝福に入れられるのです。ソドムの町が滅ぼされる事が予告されていたように、この世界もいつかは滅んでしまうのです。御使いがロトに対してこの町から逃げるように伝えたように、私たちにはイエス・キリストを信じる信仰によって、滅びから逃れることができるのです。
 しかし、ロトの娘婿達はロトの語った警告を冗談だと思いました。2つめのポイントとして、どんなに真剣に語っても受け入れない人がいるということをあげさせていただきます。ロトの警告を彼らが冗談だと思った理由について、聖書は明確に語ってはおりませんが、次のことが言えるでしょう。神様の存在を認めていないか、認めていても自分たちのしている事が罪であるとは認識していない、または問題を認めていても、それによって神様からのさばきが下されるなどあり得ないと思っていた。ひと言で言うなら、神の存在、罪の認識、神の性質についての理解、どれか1つが欠けても警告を受け入れる事は出来なくなるでしょう。そして、これは現代の私たちにもそのまま適用されるのではないでしょうか。先ほど、現代のこの社会が、ソドムの町が滅ぼされた時の状態によく似ているとお話ししましたが、同性愛を主張する人達がそのような状態なのでしょう。しかし、だからといって正しい真理を伝えない、教えなくて良い、宣言するのが無駄という事にはなりません。第1テモテ2章4節に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とありますので、この神様の御思いを私たちの祈り、願いとして、真理の宣言をしていくのであります。
 そして、最後に3つめのポイントとして、神様に選ばれた人は守られるということをあげさせていただきます。御使い達をかくまおうとしたロトが、逆にソドムの町の人達に襲われそうになりました。その時、逆に御使い達に助けられているのです。また、ソドムの町が滅ぼされることが決定的になった時、御使い達はロトに家族を連れて逃げるように指示しています。来週詳しく学んでまいりますが、ソドムの町は滅ぼされましたが、ロトと二人の娘だけが助かっています。神様もロト達を助けようとされているから御使いらによって、町が滅ぼされる事が伝えられ、逃げるように指示されているということでしょう。詩篇145篇20節には「すべて主を愛する者は【主】が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。」とあります。先週の礼拝で、創世記18章の後半から学びましたが、その中のアブラハム神様に対して「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。(25節)」と語っておりました。この原則は現代の私たちにも適用される真理でしょう。神様が提供して下さっているイエス・キリストの犠牲をそのまま信じて受け入れる事が、守られる条件です。しかし、それをかたくなに拒むものには最終的な滅びが訪れます。ソドムの町が滅ぼされたように、この世界もいつかは終わるときが来るのですが、神様との正しい関係にある者たちには、その滅びではなく、守られ、神様の支配される新しい世界へと導き入れられるのであります。

【種なしパン・聖餐式】
 ということで、3つのポイントはこのようにまとめさせていただきましたが、聖書宣教の途中で「種なしパン」の話をいたしましたが、最後にそれについて触れておきます。
 今日は5月の第1週目の日曜日で、このあと聖餐式が執り行われます。その聖餐式に欠かすことが出来ないのが、この種なしパンなのです。これは、イエス・キリストが十字架に架かっていのちを捨てられる前夜、弟子たちといっしょにした食事が過越の祭というイスラエルの祭における特別な食事で、そこで種なしパンが使用されているということから来ています。過越の祭とはイスラエル民族がエジプトの奴隷から解放された時、エジプトにはわざわいが訪れたけれど、イスラエル民族にはそのわざわいが過ぎ越したということを記念して行われるものです。その時、エジプトを脱出するのにすぐに移動を開始する必要があったため、パンを発酵させる時間がなく、種なしパンを使ったということによります。
 今日の箇所で登場する種なしパンは、その過越の祭の規定がなされるよりも、随分前の事ですが、全く関係のない話ではないように思われます。というのも、種なしパンを食べたイスラエルがエジプトでの苦しみから解放されたように、種なしパンを食べたロトは、ソドムの町での苦しみから解放されていたのです。イスラエル人が急いでエジプトから去らなければならなかったように、ロトも急いでソドムを離れなくてはなりませんでした。
 そして、この関係を現代の私たちに適用していくと、罪に汚れたこの世界からの解放がイエス・キリストによってもたらされた事を記念して、この聖餐式で種なしパンをいただいているのです。ただ、悲しいかな、ロトがソドムの滅びを伝えた相手は、それを冗談にとらえて、受け入れる事をしなかったように、私たちも熱心にみことばの真理を、イエス・キリストの福音と、いつかは訪れるこの世界の終わりを宣べ伝えているのですが、多くの人はそれを冗談と思っているのか、受け入れる事をしないでいるのです。ソドムの町が滅んだように、罪にまみれたこの世界も、いつかは神の怒りに触れ、滅ぼされる時が来ます。そうなる前に、脱出のための備えをしなくてはならないのです。
 今日、このあと聖餐式で種なしパンとぶどうのジュースをいただきます。ソドムの町の崩壊を予告されたロトの気持ちはどのようなものだったでしょうか。その事を思い巡らしつつパンと杯にあずかって、今私たちのできる事についての気付きが与えられていければと思っております。