創世記 9章18〜29節     ノアと三人の息子たち

【序論】
 歴史上何らかの貢献をしたり、偉大な業績を残した人の記録が「伝記」となって後生に語り継がれることがありますが、基本的にこのような「伝記」はその人の評価にマイナスになるようなことは割愛されたり、あまり強調点が置かれないのが一般的と思います。しかし聖書の記録の場合、この「伝記」と決定的に違うのは、登場人物の汚点というか失敗した出来事についても包み隠さず、赤裸々に書き記しているということが言えるように思います。
 先週まではこの時間、ノアの時代に起きた世界大の大洪水についての記述を見てまいりましたが、箱舟を作り出してから、その完成、洪水が終わってから神様への礼拝を捧げるなど、とても信仰深いノアの姿がクローズアップされていたと言えるのではないでしょうか。しかし、今日の聖書宣教の箇所に登場するノアの姿は、それまでの記述から見るノアの印象とはちょっと違っているような感覚を受けます。それは、あのノアがお酒を飲んで酔って裸で寝てしまったということであります。
 という事で、今日の聖書宣教はノアについて聖書に記されている唯一の汚点とでもいえるかもしれません。このノアの失態についての記述と、その時の3人の息子たちの姿について見ていきながら、私たちにとっての適用を考えていきたいと思っております。

【3人の息子とカナン】
 それではいつものように、聖書宣教の箇所を順番に見てまいりたいと思いますが18、19節につぎのようにあります。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」と現在の世界の人口は約70億人、国連に加盟している国家の数としては193、また使われている言語の数は6000から7000と言われていますが、そのルーツをさかのぼると、すべてこのノアの3人の息子たちに行き着くという事です。10章にこのことについてもうちょっと詳しい記述がありますので、それは来週のこの時間にもう少し詳しく見てまいりたいと思っております。また、ここで特徴的な記述があるのは、ハムの息子カナンについてです。セムやヤペテにも子どもたちがいたのは創世記10章に入ってからの記述から明らかですが、この個所ではハムの息子カナンについてだけ、彼の名前が登場しております。これについては後から触れさせていただきますので、今は「ハムにはカナンという息子がいたのだ」ということだけ押さえていただければけっこうです。

【ノアとぶどう畑】
 そして、20節には洪水後にノアが行った仕事がとして「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。」とあります。葡萄栽培の起源は今からおよそ5000年前で、発祥地はコーカサス地方から地中海東部沿岸地方にわたる地域だったと言われております。ノアの洪水の後、箱舟はアララテ山にとどまったと聖書に記されていますが、まさにアララテ山のあたりが、ぶどう園の発祥地であると言われているのです。歴史的な理解から言っても、整合性はとれていると言えるでしょう。また、21節によると「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」とあります。通常ぶどうの種が植えられて、それが実をならすまでには早くて4,5年はかかるそうです。ですから、最低でも洪水が終わってから4,5年経った後の出来事という事になるはずです。
 ノアの気持ちを察するに、お酒によるストレス発散という感じだったでしょうか。洪水によって、それまで600年間生活していた世界と全く違った環境におかれてしまったのです。その事に対する反動として、ついついぶどう酒に手が伸びて、飲み過ぎてしまったと言うことがあったのかもしてません。実際にアルコールによって脳内にある物質が分泌されるという事があります。それがドーパミンとセロトニンです。ドーパミンとは「楽しい」と思えること、興味のあることを目の前にした時に分泌される神経伝達物質です。アルコールを摂取することによってもドーパミンは分泌されるようで、これによって、楽しい気分になれるようです。もう一つがセロトニンという物質で、こちらは過剰な不安や恐怖などの感情を抑え、気持ちを落ち着かせる働きを持つものです。この効果によってストレスを抑えるはたらきがあるようで、このセロトニンはうつ病の治療にも利用されているほどです。ですから、アルコールを摂取するとこの2つの物質が分泌されるため、ストレス解消や精神的にリラックスさせたりする効果があると言われています。またアルコールが、体を緊張させたり、心拍や血圧を上げるはたらきがある副腎皮質ホルモンやノルアドレナリンなどの分泌を抑える効果もあるとも言われています。
 そのような事から、聖書の中にもぶどう酒を勧めている箇所があります。第1テモテ5章23節に「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」というのは、パウロが若い伝道者テモテに対する、牧会上の具体的な勧めの中の一文です。少量のぶどう酒が胃のために、また病気のためにも体によいということでしょう。しかし気をつけなくてはならないのは、ここで「少量の」という表現がされていることです。エペソ人への手紙5章18節に「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあったり、第1テモテ3章には教会の監督に推薦される人物に対して「酒飲みでなく(3節)」とか、執事に対しても「大酒飲みでなく(8節)」とありますので、少量ではなく酔ってしまうような飲酒について聖書は警告を発しています。これについても科学的に考察すると次のような事が言えます。脳内物質にはNMDA受容体というものがあり、これがアルコールと結びつくと、新しい記憶を作る能力や学習能力が低下すると言われています。以前知り合いで、飲み会の間大暴れをしたけれど、翌日その記憶が全くなくなっているというような人がおりました。まさにアルコールがこのNMDA受容体と結びついた状態だったのでしょう。またストレス解消をアルコールに求めるようになると、ストレスから飲酒に頼るという悪循環が生まれ、アルコール依存症へと発展しかねません。さらに二日酔いになるほど飲み過ぎると、通常の3倍もの神経細胞が死滅するという説もあるようです。それが第1テモテ5章18節で「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と言われている理由と言える事でしょうし、その状態が今日のノアの姿からも見れる事だと思われます。

【息子たちの対応】
 そのようにぶどう酒に酔ってしまったノアですが、22節に「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。このときのノアは裸で眠ってしまったのでしょう。冒頭にも触れたようにノアには3人の息子がおり、その中でハムがまず最初にノアの失態を目撃しました。そこで彼のしたことは、その事実をセムとヤペテに伝えたという事です。すると、その知らせを受けたセムとヤペテがどうしたのかというと、23節で「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」というのです。ハムのしたことは、父の裸を見たことと、それを兄弟たちに伝えたという事です。それと共に彼のしなかったことは父の裸をおおうということでした。それとは逆に、セムとヤペテのしなかったことは父の裸を見ることと、他人に伝えるということの二つで、彼らの行ったことは父の裸をおおうということでした。
 この個所にノアの息子たちがとった行動と、逆にとらなかった行動の理由については記されていません。しかし、この後のノアのことばによって、ハムについては否定的な評価、セムとヤペテについては、積極的な評価がされています。そこから分かることは、まずハムの行為はいけなかったということでしょう。父が酒に酔って裸で寝てしまっているのを見て、それを黙っていることなしに、しかもそのまま放置して、兄弟たちにその事実を伝えたというのは、父の失態を晒して笑いものにするような感覚だったと考えられます。このことを伝えた後でセムとヤペテが父に着物を掛けていますが、その行為にハムが同行していないということからも、そのように考えられます。
 では、本当ならハムはどうするのがふさわしい対応だったのでしょうか。父が裸で酔っ払っている姿を見なければ良かったのでしょうが、見てしまったのなら仕方がありません。これについては問題を指摘することは出来ないでしょう。しかし、見た後が問題でした。すべき事は父の失態を晒すことなく、こっそりと着物を掛けてあげることだったのではないでしょうか。そして、わざわざ兄弟たちにこのことを告げることも、すべきではなかったと思われます。実際にセムとヤペテは、後ろ向きに歩くようにしてまで、父の姿を見ないようにして、ノアに着物を掛けているのです。この二人の行動からは父親の尊厳を落とすことのないような配慮を感じられます。

【ノアのことば】
 そのような息子たちでありましたが、24節には「ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って」とあり、25節でノアが語ったのは「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」とのろいを宣言しております。しかし、ここで腑に落ちないのは、父のすがたを兄弟たちに告げたのはハムでした。にもかかわらず、ここでのろいを受けているのは、ハムの息子カナンであるという事です。また10章にはノアの3人の息子たちの子孫についての記録がされています。6節に「ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。」とありますので、ハムには4人の息子がいたことが分かります。その中でカナンだけが、ノアからののろいを受けているのです。ハムの問題行動がその子どもたちに影響を与えるというのであれば、ハムの4人の息子たちに共通に同じようなのろいが下されるはずでしょう。しかし、この時にはカナンだけがのろいを受けているのです。申命記24章16節に「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。」とあります。今日のノアの出来事は律法が提供されるずっと以前ですから、直節的にこの律法は適用されないにしても、原則的なこととしては言える事と思います。ですから、ここでカナンがのろいを受けているわけですが、これはハムが犯した間違いの影響でカナンがのろわれたというのではなく、この事にカナンも絡んでいたか、ハムの持っているそのような性質が、息子のカナンにも引き継がれていたことを意味しているということでしょう。
 そして、カナンのその後については、旧約聖書の中に何度か登場しますが、否定的な事としてはっきり見ることが出来るのは、イスラエル人がエジプトでの奴隷から解放されて、約束の地に導かれていくときの記述です。レビ記18章3節の後半に「またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。」とあります。具体的な彼らの風習については5節以降に記されていますが、ひと言で言うなら性的な不道徳と偶像礼拝ということができ、イスラエル民族がそのような事をしないようにとの警告と共に、27節には「あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた」と、カナンの子孫であるカナン人がそのような事をしてきたことにより、彼らへのさばきが下されるために、イスラエルが用いられるという事が神様の計画としてあったということです。そして原因の根本が、この創世記9章のカナンの父親であるハムの行為によって説明されるという事になるでしょう。実際に今日の箇所だけでも18節で「ハムはカナンの父である。」また22節でも「カナンの父ハムは、」ということが繰り返されています。ですからこの出来事は、カナンがどうしてのろいを受けるようになったのか、ノアに対して彼の息子たちがとった行動から、カナンの持って生まれた性質が説明されている出来事というように捉えることができるものです。
 ですから26、27節では「ほめたたえよ。セムの神、【主】を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」とあるように、セムとカナン、ヤペテとカナンの関係が宣言されているという事でしょう。

【結論、適用】
 というのが、今日の箇所から考察される内容でありますが、聖書宣教のテーマは「ノアと三人の息子たち」というタイトルでしたので、そのような視点で全体を振り返って、まとめさせていただきたいと思っております。
 まずはノアの姿ですが、創世記6章の登場から、今まで忠実な信仰者というようなイメージを持ってきましたが、この個所で初めて、彼の失態が記されています。このことから、どんな人間にも弱さがあるということが言えるでしょう。ノアだけでなく、聖書に登場しそれなりの分量で取り上げられているほとんどの人は、何かしら弱さや問題についての記録がされています。唯一の例外はイエス様だけであります。旧約聖書の預言者やイエス様の直接の弟子であっても例外ではありません。完璧な人は誰ひとりいないのです。そして、それは私たちについても、言うことができる事であります。完璧でないからと言って「自分はだめだ」と思う必要はありません。その弱さや罪を補って下さるためにイエス様が身代わりで苦しんで下さったのです。そして、どんなに立派な信仰者であっても、皆それぞれに弱さや問題をもっている者であります。ですから私たちは隣人に対しても過剰な期待や評価をしてしまうことなく、人に頼るのではなく、唯一完璧な神様にのみ信頼し、頼る者でありたいと願っております。
 また、誰かに対してそのような問題点を発見したならどうするのかというと、良くない見本は今日のハムの姿でしょう。特に彼の場合は、本来なら敬うべき父親の失態を、自分の兄弟たちに告げたという点において、大きな問題を感じます。それは父親だからだめで他の人だったらよかったという事でもないでしょう。人の罪や問題点を明らかにするのは聖書の原則からは外れると言えます。マタイの福音書18章で、誰かが罪を犯したときの対応について、イエス様が次のように語っておられます。まずは二人だけでその事について話し合うこと。それで聞き入れないなら、初めて他にひとりかふたりを一緒に連れて行くこと。それでも言うことを聞かないなら、教会で対応をするというステップです。いきなり、その問題を公にするのは聖書的な対応ではありませんし、第1ペテロ4章8節に「愛は多くの罪をおおう」とあります。ですから逆に、人の罪を晒すのは愛による行為では無いということになるでしょう。イエス様の姿を見ても、私たちの罪をおおうようにして贖って下さったということが言えるものです。
 ですから、私たちはまず、自分自身が完璧ではないことを認めましょう。そして隣人に対しても完璧を求めるべきではないという事を知る必要があります。完璧な人は誰もおらず、信仰年数がどんなに長くても、この地上生涯において、全く罪を犯さなくなったりする事はあり得ないのです。
 そして、私たちはまず、自分自身の罪をおおって下さったイエス様に対して感謝すると共に、他人の問題点に目がとまったときにも、それを公にしたりするのではなく、それをおおってあげるのが、その人への愛を実践することになるのではないでしょうか。
 第1コリント13章「愛の賛歌」と呼ばれている聖書箇所で、愛とはどのような物であるのかについていくつか記されていますが、その冒頭4節には「愛は寛容であり、愛は親切です」で始まります。そして7節には「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」とあります。今日の箇所で登場したセムとヤペテの行為から、このような愛を覚えますし、誰よりも何よりもイエス様が私たちにそうして下さったのですから、その愛を受けて、私たちがそれを実践していく者と造りかえられていくことを心から願う者であります。