創世記 3章1〜13節 善悪の知識の木の実を食べた人たち
【序論:背景確認】
創世記の学びをすすめておりますが、先週で2章が終わりました。2章はエデンの園の様子と男性アダムのあばら骨から女性エバが造られたという内容なので、それは天地創造の6日目の出来事について記されているものだったということが分かります。そして今日は3章の前半部分を見てまいりますが、これは、アダムとエバがエデンの園でしばらく生活をしてからの出来事と考えられます。この創世記3章は人類が初めて犯してしまった罪について記されている箇所で「人類の堕落」という表現がされることがありますが、今日はその経緯についていっしょに見てまいりたいと思っております。
【蛇】
では、まず3章1節前半をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。ここでは蛇が特別な動物として書かれており、その表現としては「一番狡猾」と言われています。日本語で言う「狡猾」というのは「ずるく悪賢いこと」という意味ですので、通常良い意味で使われることはありません。実際にこの個所でも蛇の行為は良くないものとして取り上げられています。そしてこの時に蛇が女性に話しかけていますので、人間のことばも理解していたという事ですが、私たちの知っている蛇がこのように人間のことばを語ったり人間と会話をしたりすることはあり得ないでしょう。ではこの蛇は何者なのかというと、黙示録12章9節に「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」とあったり、同じく黙示録20章2節に「彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、」とあるように、私たちの知っている爬虫類の蛇ではなく、悪魔でありサタンが蛇の姿をとってあらわれたというか、蛇にとりつくようにしてことばを語ったと考える事が出来るかもしれません。
ではその蛇のセリフについてですが、1節後半で「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」とあります。日本語では疑問形に訳されていますが、直訳っぽい表現をすると「まったくもって神様は言った。園にあるどんな木からもとって食べてはいけないと。」というもので、必ずしも女性に対する質問として語られたことばではなく「神様ってこのようなお方である」と言ったという表現で「あれもだめ、これもだめ、何もかもだめだ」と言っているようなニュアンスです。
【女の答え】
それに対して2節には女性の蛇に対することばが記されています。ここには「女は蛇に言った。『私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。』」とありますが、創世記2章16節に「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。』」とあるように、当時の彼らの食事はエデンの園にたくさんあった木の実、果物などでした。それが彼らの食欲を満たすのに必要な食べ物であったわけです。だから女性は「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」と答えているということでしょう。しかし、ここまでは良しとしても3節の女性のことばに問題があるのです。ここでは「しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と答えています。では本当に神様がそのようにおっしゃっているのかということで創世記2章17節を見てみると「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」と言われています。全然違うとは言えないけれど、微妙な違いがこの女性の発言から見ることができます。
園の中央には「善悪の知識の木」だけでなく「いのちの木」もありました。しかし、彼女の意識としては「いのちの木」についての存在は全く気にかけていなかったようです。園の中央には二本の木があったけれど、そのうち食べることを禁止されていたのは善悪の知識の木だけです。もう一本のいのちの木に関しては、特に何も神様はおっしゃっておりません。ですから食べてもよいはずのいのちの木です。また、触ってもよかったけど、それも禁止されているように考えていたようです。ということは、この女性は神様のことばを正しく覚えてはいなかったということでしょう。彼女は神様から禁止されていること以上に多くのことをしないようにしていたのです。いのちの木からとって食べても良かったのにも関わらず、それが園の中央にあるということから、その木の存在については意識から外され、食べることも触ることもしていなかったということが考えられます。
これは、自分たちが神様からの言いつけを守るために、それの少し外側に垣根のようなものを作り、それを守ることで、神様の戒めを破ってしまう危険から身を守ろうとしていることだと思います。エデンの園に住んでいた彼らは、本当に禁止されていることだけではなく、必ずしも禁止されているわけでもないことまで、自分の判断で「それはしてはいけないことだ」と思いこんでいました。自ら自由を束縛していたのです。
私たちも神様が本当に禁止していることは何であるのか、聖書が語っている本当の基準がどこにあるのか、正しく理解しておかないと、普段の信仰生活の中で何か窮屈な思いをしてしまうことにもなるでしょう。または、自分の勘違いで禁止してしまっている垣根の内側に大きな祝福があった場合、それを受けることができなくなるということにもなりかねません。罪を犯す可能性があることを気をつけるのはよいことです。しかし、そのためのライン引きが神様の要求していることではなく、人間が勝手に取り決めていることであるのなら、その基準は見直すべき必要のある決まり事であるはずです。
【蛇の応答】
そして、この創世記3章の人間達はまさにそのような事をしてしまっていたのです。そこに蛇、悪魔であるサタンはつけ込んできたということが考えられます。4、5節で「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」とあります。4節の「あなたがたは決して死にません」というのは神のことばを否定しているものです。神様は2章17節で「それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」とおっしゃっています。また5節は「神のようになる」というのは、ある面本当ではありますが、神のようになりたいと考えたのはこの悪魔であるサタンが自ら犯してしまった罪であります。それはエゼキエル章28章2節にあるサタンについての描写と見ることの出来る箇所に「『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」とあることから確認されることです。
【食べた彼ら】
そのように言われた女性がどのように感じ何をしたのかというと、6、7節で「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」ということです。ですから5節でサタンが「目が開かれる」というのは本当でした。また「神のようになる」というのも確かにそうなっているとも言えるでしょう。しかし、それがよい結果をもたらしたのかというと、そうではなくかえって自分の姿を知り、恥ずかしくなって自分の体を覆い隠すようになってしまったのです。それまでは2章25節に「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあるように、自分たちが裸であっても何も恥ずかしいとは思っていなかったのです。この時彼らは初めて「恥ずかしい」という感覚を持ったという事になるでしょう。それが神様の戒めを守ることをしなかった結果としてもたらされたものです。
【神様との対話】
すると8節には「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」とあります。それまで彼らは神様と裸で交わっていても、なにも恥ずかしいとは感じておりませんでしたので、隠れたりすることはありませんでした。これも彼らが初めて体験した感覚というように言うことができるでしょう。普段なら神様がエデンの園に姿を現したら逃げも隠れもせずに人間達は神様の前に姿を現したことでしょう。しかしこのとき彼らはそうではなかったため9節で「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」とおっしゃっています。
神様は彼らがどこにいるのか分からなかったのでしょうか。そんなことはありません。彼らがいちじくの葉で腰のおおいを作り、園の木の間に身を隠したということも分かっていたはずです。それなのに、ここで「あなたは、どこにいるのか」とおっしゃっているのは、すべてを分かった上で、そのこと自体を嘆き悲しんでいることを、この表現によって表しているというように言うことができるでしょう。
ともかく、この神様からの質問に対する人間の答えが10節で「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」というものです。どうしてこのようになったのかという事について、彼は言及していません。神様が食べてはいけないとおっしゃっていた善悪の知識の木から取って食べたことによって、裸であることに気付いて隠れなくてはならなくなったという事は気付いていたはずです。それなのに、そのことについては触れずに「自分が裸だから隠れた」という結果だけを語っています。
すると、それに対する神様のことばが11節で「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」というものです。これも神様が人間に対する質問として語られていますが、神様が知らなかったのかというと、そうではないでしょう。さきほどの「あなたは、どこにいるのか」という質問同様、人間の行為についての悲しみを表現しているということが言えるでしょう。
【責任転嫁】
それに対する人間の答えがまず12節で「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」というものですが、どこにも「自分が悪かった」という表現はありません。それでは誰が悪かったのかというと、彼をそそのかした女性の責任だというのです。そればかりか、ここに「あなたが私のそばに置かれたこの女」という表現をしているのは、自分が善悪の知識の木の実を食べた責任は、神様にもその一端があると言っていることになるでしょう。最初に神様が女性を造ったときに「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。(2:23)」と大喜びしたのとは対照的に、こちらでは自分が悪いのではない、悪いのは自分に善悪の知識の木の実を渡した女だ、しかもこの女は神様が私のそばに置かれたものではないか、という責任転嫁をしているのです。
このような性質は、男性だけではありませんでした。13節ではその女性と神様との会話が記されていますが、それはまず神様が「あなたは、いったいなんということをしたのか。」と質問をしているのに対して、女性も「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」と答えています。この女性も自分が食べてしまった理由を蛇のせいにしているということです。このようにして、このときに罪を犯してしまった人間たちは、それぞれ素直に自分の罪を認めるのではなく、他のものに責任を転嫁して、自分は悪くないように言っているのです。そうして3章後半でかれらは神様によってのろいが宣言されておりますが、これについては来週の箇所として取り上げさせていただきますので、来週をお楽しみ下さい。
【考察・適用】
というのが今日の聖書箇所の内容ですが、全体を振り返ってまとめて終わりにさせていただきます。まず、悪魔サタンである蛇の誘惑についてですが、このとき蛇は神様が人間を束縛しているような印象を与えています。神様は人間に対して「園のどの木からでも思いのまま取って食べてよい」とおっしゃっています。このことから、神様まずは自由を与えて下さるお方であるということが言えるでしょう。そして、その中に「ただし、善悪の知識の木から取って食べてはいけない」という条件を与えておられるというのが本当です。しかし蛇はそのようなアプローチではなく、神様が禁止している事柄を強調した表現をしています。これはサタンの常套手段ということが言えると思います。人間に神様に対するイメージを損なわせようとして、神様に対する不信感を与え、反発させようとしているのです。ですから私たちの身の回りにも神様に対する否定的なイメージを与えようとしている動きはサタンの影響によるものだと言うことができるかも知れません。
そして、次に蛇のしている事は神様のことばを否定しているということです。神様は人間達に「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とおっしゃっています。それに対して蛇は「あなたがたは決して死にません」と語っています。明確に神様のことばをくつがえしているのです。聖書は誤りなき神のことばであるというのが、私たちの聖書信仰の土台ですが、これについても、もしも聖書のことばを否定して来る様な働きがなされた場合、それがサタンによるものであると言えるかもしれません。
このような誘惑は私たちの身の回りにも訪れ来得る事だと思いますが、そこから間違いを犯してしまう危険性を回避するために必要なものは、みことばに対する確かな信頼と、それを正しく心に留めるということでしょう。エデンの園での人間達への禁止事項は「善悪の知識の木からはとって食べてはならない」というただ一つのことでありました。しかし彼らは、その範囲を「園の中央にある木」として「触れてもいけない」と語っておりました。それは自ら禁止事項を増やして、自らの生活を窮屈にしてしまっていたということです。
私たちはみことばを正しく理解し、自らの生活を窮屈にするのではなく、神様の自由の中、喜びと感謝を持って生活を続け、本当に言われていることは何であるのか正しく理解し、神様への正しい畏れをもって、みことばの勧めを実践していくものでありたいと願っております。
ということで、私たちは彼らと同じ罪を犯してしまうことのないように…となりますし、自分がエデンの園で最初に造られた人間だったら、決して蛇にだまされるものか、自分だったら決して間違いを犯すことはなかったはずだ、と思ったりすることがあるかもしれません。しかしこのような考えは当時のアダムとエバも同様に思っていたのではなかったかと思います。最初にエデンの園に置かれた彼らは私たちの、自分自身の姿です。ですから私たちも同じ状況に置かれたとしたら、同じ事をしてしまっていたはずなのです。ですから私たちにも罪があるということが言えるのです。
今日の中心聖句としては、第1ヨハネ1章10節を選ばせていただきました。「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」私たちにはアダムとエバ同様に罪があるのです。そのような性質をもつものであり、彼らの犯してしまった罪をそのまま受け継いでこの世に誕生してきたのです。ですから彼らの罪は私たちとは無関係ではありません。聖書は私たちが自分の罪を認めることをすすめておられるのです。
聖書の記述について「たら、れば」はあり得ないことで、それを考える事自体はあまりすすめられるものでは無いとは思いますが、この時もしも彼らが自分の非を認めて、謝罪していたらどうだったでしょうか。何らかの罪の償いはあったであろうとは言えますが、同じ結論ではなかったのではないかと思われます。私たちが正しく悔い改める時に、神様はそれを補って下さるお方です。逆に自分の罪を認めないのであれば、その時には厳しく対処されるお方です。聖書が私たちに罪を認めることを勧めているのは、神様がそれを赦そうとして下さっているからであります。なにしろその為に神様がひとり子イエス・キリストをこの世に誕生させ、十字架でいのちを捨てられたのですから。
ですから私たちはまず、様々誘惑が訪れるこの世において、間違いを犯すことのないように、神様への畏れと聖書のみことばに対する確かな信頼をもって、それを正しく心に留めてまいりましょう。しかし、弱さを持っている事を認めつつそれを覚えることで、おごることがないように。もしも間違いを犯してしまったら、それを認め、速やかに悔い改めることができるように。なにしろ私たちに赦しを提供してくださるために、神様がひとり子イエス・キリストをこの世におつかわしになり、私たちの罪の罰を身代わりに負わせてくださったのですから。