創世記 2章1〜3節 七日目に休まれた神

【序論・振り返り】
 先週まで創世記1章から「6日間で造られた世界」を見てきました。その前の状態は茫漠として何もなかったわけですが、そのところに神様が1日目から3日目で秩序だった環境を整え、4日目から6日目で何もない世界にあらゆる物を置かれたという内容でした。そして、そのまとめというか結論として1章31節で神様は「見よ。それは非常によかった」とおっしゃってますが、それは私たちが今置かれているこの世界であり、神様のかたちをもって創造された私たちに対する評価であったわけです。

【7日周期】
 そして、今日はその続きの聖書箇所を見てまいりますが、まず2章1節で天と地が6日間で作られたことの宣言が「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」とあり、その次の2節と3節には「神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」と7日目についての記録があります。6日間続けてお働きになって神様もお疲れだったのでしょうか。しかし、イザヤ書40章28節に「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあります。ということは疲れたわけではないようです。なにしろ神は時間を超越して、何でもできるお方のはずでしょう。疲れによって働きが妨げられては全能とは言えません。また、全能であるが故に、天と地を造られるプロセスにおいてもわざわざ6日かける必要も無いと言えるでしょう。神様はそうしようと思われれば、一瞬で完璧なものを創造することも可能です。そうであるにもかかわらず6日間働いて、1日休まれたというのは、人間に対する模範という意味合いがあるのではないでしょうか。私たちに人間は神様ではないので疲れます。休みを必要とするものであります。ですから、神様がされたサイクルで私たちが日常生活をおくるというのが、神のかたちとして創造された人間にとってちょうど良いものとして、神様がお手本をしめされたと考えられると思います。実際に、この6日働いて1日休むという1週間のリズムは人間や自然界にとって、合理的なリズムだと言われていますし、世界中のほとんどの国でこの7日周期というのをカレンダーの基準としているようです。
 ではそのルーツはどこにあるのかというと、言わずもがな、この創世記の記述によるものだという事になるでしょう。ただ、この6日間何かをして7日目に休むということについて聖書の記述によれば、この段階で神様が人間に対して求めていることはありません。最初にこの7日目に休むということを人間に対して要求しているのは出エジプト記16章であります。これはイスラエル民族がエジプトでの奴隷から解放され、神様の導きによって荒野を進んでいっているところの記述ですが、彼らの食物として神様は天から「マナ」という食べ物を振らせました。これを毎日その日分の食料として拾い集めて食べるのですが、翌日まで取っておくと虫がわいて悪臭を放ったとあります。しかし、6日目は二日分集めてその半分を7日目のために取っておくようにというのです。すると、もちろんその6日目に集めた物が7日目に虫がわいて臭くなるという事はありませんでした。ですから6日間は毎日マナを集め、7日目にはお休みをするということが必然的になされていたのです。

【律法として】
 そして、出エジプト記20章にはモーセの十戒が語られていますが、そこには決まりとして6日働いて7日目に休むようにという律法が記されています。9節から11節をお読みします。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。‐‐あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も‐‐それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」ここで、7日目を休む理由として言われているのは、神様が6日間で世界を作り7日目に休まれたからだという理由がはっきりと述べられています。ということは、イスラエル民族は7日目に休むときに、神様の創造の御業を思い起こすというのがこの日のふさわしい過ごし方ということになるでしょう。
 そして、彼らはこの7日目の安息日を大変重要視しております。この安息日はイスラエルのカレンダーの中で最も聖なる日だと言われており、この安息日があるが故に自分たちの民族が守られているという格言があるほどです。そして、この安息日の規定については守らない人に対する罰則もあります。出エジプト記31章15節には「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。」とあります。この罰が実施されたこととして民数記15章には、安息日に薪集めをしてた人が石打にあって殺されているということがあります。
 そのようなこともあって、この安息についての決まりは現代のイスラエルでも徹底的に守られています。その人が宗教的かどうかということで多少の違いはあるようですが、大抵のユダヤ人はこの日旅行はしませんし、車を運転することや、料理も作りません。安息日には火を使うことが禁止されているからです。そして電気の使用も、そのスイッチを入れるときに火花が飛ぶという解釈から禁止されています。
 ですからユダヤ人は安息日の前に色々な準備をします。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までということなので、金曜日の日中はけっこう忙しいようです。家の掃除をして、翌日分の食事もこの日のうちに作ります。そして金曜日の日が沈んだ後に仕事をすることがないようにするのです。ちなみに、金曜日の日没から安息日に入るということについては、創世記1章で天地創造の記述の時「夕があり、朝があった…」という表現で一日が区切られているからであって、一日の始まりが夕方という理解があるからです。ですから一週間の終わりが土曜日の日没で、その時から新しい一週間が始まるということであります。

【異邦人への適用】
 というのが旧約聖書の律法の決まりですが、私たち異邦人はこの安息日についてどのように考えればよいのでしょうか。聖書を信じている私たちでも金曜日の日没から仕事をしないように安息日の規定を守っているということははいはずです。もちろん、私も今ここで「安息日を守るようにしましょう」というつもりもありません。では、次にどうしてモーセの十戒に記されている事であるにもかかわらず、安息日を守ることが無視されて良いのかということについて触れたいと思います。
 その理由はまず私たちが異邦人だからです。旧約聖書に記されている十戒を初めとするモーセの律法は全部で613あるといわれておりますが、それらはあくまでもユダヤ人、イスラエル民族に対して与えられたものです。そしてイエス様を信じた人に対して旧約聖書の律法がどのように適用されるか、されないかということについては使徒の働き15章で確認されています。「エルサレム会議」を呼ばれている箇所ですが、このときパウロ、バルナバ、ヤコブらが話し合った結果として28、29節に「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」とあります。これが異邦人クリスチャンに対して旧約聖書の取り決めで適用される範囲であります。ひと言でいえば「偶像礼拝に関わらない」ということができるでしょう。もしもこの時、異邦人でイエス様を信じたなら旧約聖書の律法を守るようにしなければならないということになったら、安息日も守らなくてはならなかったはずです。それどころか、男の子が生まれたら8日目に割礼を施さなくてはなりません。また食物規定も適用されますので、豚肉やウロコのない魚介類が食べられなくなってしまいます。しかし、この使徒の働き15章で、そのような結論にならなかったから、私たちが日本文化の中で信仰生活が守られているということが言えるでしょう。

【日曜日についての誤解】
 しかし、けっこう多くのクリスチャンが日曜日に礼拝を守ることを安息日との関係として理解している事があります。はっきり言って誤解なのですが、どうしてそのように受けとめられるようになったのかというと、ウェストミンスターの教理問答というものが強く影響しているように思います。そのウエストミンスター小教理問答集の59番に「七日のうちのどの日を、神は週ごとの安息日と指定されましたか。」という問いがあり、その答えとして「神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。そして、キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。これがキリスト教安息日です。」とあります。これに基づいて、多くのキリスト教会が日曜日を「安息日」として礼拝を守っているということでしょう。しかし、これには二重の間違いが含まれています。一つめがモーセの律法を異邦人である私たちに適用しようとしていること。これは先ほど使徒の働き15章を見たように、適用されないというのが聖書の教えです。もう一つは週の初めである日曜日のことを「安息日」としてしまっていることです。安息日は週の終わりの七日目ですし、聖書のどこにも日曜日を安息日と指定するようなことは書かれていません。
 ではウエストミンスターはどうしてそのような勘違いをしたのかというと、初代教会が週の初めの日に集まっていたということからです。それは使徒の働き20章7節前半に「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」とありますし、パウロがコリント教会に宛てた手紙の中にも(1コリ16:2)「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」とあることから来るようです。しかし、これは土曜日の安息日に取って代わって週の初めの日に集まるようなったというのではなく、週の初めの日にイエス様が復活されたことを記念して、共に集まり、その時にイエス様が最後の晩餐でパンを割きぶどう酒を分け合うときに語られた「わたしを覚えてこれを行いなさい」ということの実践をしているのであって、安息日がこの日に置き換えられたということではないのです。そしてこれは初代教会がそうしていたということであって、聖書がそうすることを私たちに対して求められている事ではありません。

【聖書の記述】
 このような考え方については、聖書も次のように語っています。ローマ人への手紙14章5節には「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」ということで、これについては各々が判断して、それぞれの確信の中で実践すればよいということです。またコロサイ人への手紙2章16節にも「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」とあります。ここに「批評させてはなりません」とありますので、逆の立場からいうなら「批評すること」自体が新約聖書の勧めに反しているということであります。ですから安息日に休むことや週の初めの日に集まることを守りたい人はそれをその人の確信の中で実践すればよいし、その人は自分がしているからといって他の人に強要すべきではないということになるでしょう。または安息日や週の初めの日の礼拝についてこだわっていない人は、それを実践している人を「意味のないことをしている」と批評することも間違っています。それぞれの確信の中で自分がどうするのか決めればよいのです。ではいっしょに集まって礼拝すること自体が勧められていないのかというと、そうではありません。ヘブル人への手紙10章25節に「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とありますので、公同の礼拝を定期的に実践するのは聖書的であります。

【キリストとの関係】
 ところで、先ほど見たコロサイ人への手紙2章16節の続き17節には「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」といわれています。食べ物やカレンダーについては次に来るものの影だといって、それは何かというとキリストであるというのです。特に今日は安息日という事について見ておりますので、これについて聖書の記述を確認すると、ヘブル人への手紙4章で出エジプト奴隷から解放されたけれど荒野での不信仰によって、カナンに入れなかった人たちに対して「安息に入らせない」と表現がされています。そして11節には「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」といわれていますので、神様が備えて下さっている祝福にすべての人たちがあずかる事が出来るようにという勧めでしょう。そして「安息」というのは「休む」ことであります。それとイエス・キリストとの関係で考えるならマタイの福音書11章28節に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とのみことばが思い起こされます。安息日が影で本体がキリストにあるというのは、まさにこのことを表現していることと見ることが出来るでしょう。ですからイエス・キリストのところに行くのが安息に入ることであります。これはイエス・キリストを救い主として信じ受け入れる事であり、そのようなものには永遠の天の御国に導き入れられるという祝福が約束されています。これこそ本当の意味での「安息」であります。ですから神様が6日間働かれて7日目に休まれたように、私たちもこの地上での生活を終えたときには、不従順によって落後することなく、イエス様の元における永遠の安息に入ることが出来るように、堅く信仰に立ち続けるものでありたいと心から願っております。なにしろイエス様が「私のところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます」と招いて下さっているのですから。