創世記 1章1〜2節 茫漠とした地

【序論】
 先週の礼拝では黙示録から新天新地について共に学びました。何から何まで新しくなっているので、私たちにとってはなかなかイメージしにくいようなものですが、とても素晴らしいところであるということは確実なこととして言うことができるでしょう。その中で「海がない」ということについて、二通りの解釈が可能でした。文字通り海が無くなるという考え方と、それとも「海」を象徴的なこととしてとらえて、神様からのさばきが亡くなるというか、さばきの結果として訪れたのろいからの解放ということが、この表現によって表されているのかということです。その中でどうして「海」が「さばきの結果ののろい」を表すことになるのかについて、先週もちょっとだけ触れさせていただきましたが、今日はその根拠として考えられることについて、もうちょっと詳しく触れさせていただこうと思っております。

【茫漠】
 ということで、今日の聖書箇所としては創世記1章1、2節ですが、皆さんよくご存知の箇所と思います。「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とありますが、この個所の一般的な理解としては、1節で神様が天と地を創造したという事を宣言して、2節以降、その創造された順番がどのようなものだったのかということを説明しているということだと思います。実際に私も聖書を読み始めた頃はそのように思っておりました。しかし、創世記1章1節の終わりには「ラフィア」と呼ばれる終止符がついているのですが、その意味はこれだけで独立した段落ということを表しているのです。ですから1節と2節以降では違う話が展開されているということになるため、このような解釈はちょっと無理があるようです。
 そして、2節には「地は茫漠として何もなかった」とありますが、茫漠とは先週の聖書宣教でも触れたとおり「広々としてとりとめのないさま、はっきりしない様子」という意味です。そして、これが創世記1章1節で作られた天と地であるなら、その天と地が茫漠であったということでしょうか。しかし、イザヤ書45章18節には次のようにあります。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。…」イザヤ書では神様が作られた天と地は、茫漠ではなかったとありながら、創世記では「地は茫漠として何もなかった」というのでは、矛盾ともとらえることが出来るでしょう。聖書は誤りのない神のことばであるというのが、私たちの聖書信仰ですので、疑問を感じます。
 ということで、この疑問を解決するための説としては、2節の「地は茫漠として何もなかった。」と訳されている表現を「…何もなくなった」というように解釈することです。実際にこの箇所は、そのようにも訳することが出来る表現がされております。そのように考えると、創世記1章1節の「初めに、神が天と地を創造した。」とあるのは、まず神様は私たちのよく知っているこの世界と違ったスタイルの天と地を作られて、それは茫漠ではなく完璧な世界であったけれど、その後に何かの出来事がきっかけとなって「地は茫漠として何もなくなってしまった」という解釈で、1節と2節の間にギャップがあるということから「ギャップ理論」と呼ばれています。

【大水】
 そして、この考え方を推す根拠としては「茫漠」というだけではありません。2節に「地は茫漠として何もなかった。」と言いながら「やみが大水の上にあり…」と言われているのです。「何もなかった」と言っておきながら「大水」だけ存在しているというのは、不思議な気がしないでしょうか。そして創世記1章3節以降に6日間で神様が天と地を造られた経緯が記されていますが、やはり神様は水を作ったという記録はされていないのです。天地創造の二日目の記述が創世記1章6節以降にありますが、そこを見ても、神様は「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」とおっしゃっているだけで、水というか海を作ってはおられないのです。
 そのようなことから、創世記1章3節以降6日間の天地創造の記述がありますが、その一日目よりも前の段階で既に水は存在していたと考えた方が自然です。そして、それが創世記1章2節で言われていることと見ることが出来ます。

【茫漠となった理由】
 では、その創世記1章1節と2節の間に何があったのかということになりますが、そのヒントになるのは、1章3節以降の天地創造の記述の中に登場していないにもかかわらず、その後の歴史の中に登場しているものが関係していると考えられます。それが何かというと天使、御使いと悪魔、サタンであります。どちらも天地創造の6日間に作られた形跡は無いにもかかわらず、聖書の記述の中に当然のように登場しているのです。
 ヨブ記38章4節から7節に、ヨブに対して神様が語られたことばが記録されていますが、そこには「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」とあります。この箇所は天地創造の時の出来事として語られているもので、7節にある「明けの星々」とか「神の子たち」とあるのが天使、御使いのことを指している表現であります。
 またサタン、悪魔については創世記3章にはいって、アダムとエバをそそのかした蛇がサタンであります。そのことは黙示録12章9節の「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」という表現からも確認されることです。ということは、彼らが創世記1章1節で、初めにに神が創造された天と地において作られたと考えられるのではないでしょうか。
 ではその初めに造られた天と地が、どうして茫漠となってしまったのかということについですが、サタンの起源について書かれている箇所を見てみたいと思います。エゼキエル書28章に「ツロの王」について言及されていますが、まず12節から15節までをお読みします。「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」ここに「美の極み」とか「神の園エデン」にいて宝石でかざられていたこと、最初は完全であったという事などは、人間に対する表現と見なすのには無理があるでしょう。そのことからこの個所で述べられているのが「サタンの起源」というように解釈されています。そして、16節から19節にはサタンの堕落について次のようにあります。「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」ここに自分の美しさに高ぶり、聖所が汚され、追放されているとあります。これがサタンの堕落です。またサタンへのさばきとしては、イザヤ書14章12から15節にも次のような記録があります。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」この「暁の子、明けの明星」というのが堕落前のサタンのことであり、彼が天から落ちた理由が13,14節の「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」ということです。被造物に過ぎない存在が神のようになることを望んだことによって、さばきが下されたということであります。
 とはいえ、彼は最初からサタンだったということではありません。元々は神様に仕える天使として作られた存在であり、その中でも最も位の高い天使長だったと理解されています。ですから、美しく力があって当然という事になるでしょうが、逆にそのような性質があったことで、高ぶり、神のようになろうとしたことで堕落してしまったということです。要するに創世記1章1節で作られた初めの天と地に住む天使に堕落が発生し、天使の管理下にあったその世界が茫漠となってしまったということで、それが創世記1章2節で言われていることと捉えることができるのです。そして茫漠となった地には、サタンの堕落によってもたらされた「大水」が存在するようになって、それが呪いの象徴と見なされているようです。ですから先週見た新天新地では「海がない」というのは、サタンが完璧に滅んでいるということで海が無くなっているという関係が考察されます。

【神の霊が水の上を…】
 ここまでの話しではこの世界が作られる前に随分大変なことがあったのだなぁ、といってあまり私たちには関係のない話しになってしまいかねないのですが、まだ創世記1章2節の後半部分を見ておりませんでした。
 ここに「神の霊が水の上を動いていた」とあります。2節前半の「大水」とこちらの「水」は実は違う単語が使われています。「大水」と訳された単語はテホムというヘブル語で「深い淵、深い水」という意味があります。新改訳で「やみが大水の上にあり」とある箇所は新共同訳では「闇が深淵の面にあり、」とされています。それに対して後半の「水」はマイムという単語で、同じ水でもこちらは人間が生活していくのに必要な水として、いのちを連想させる表現がされているのです。そしてその上に神の霊が動いていたとありますが「神の霊」とは聖霊の事を指している表現でしょう。そして「動いていた」と訳されている単語は「震える、羽ばたく、宙に舞う」などの意味があり、母鳥が卵を抱いている様子が連想される表現です。それはつまり、茫漠となってしまった世界が、聖霊によって再創造されようとしている姿がそこに表されていると見ることが出来るのです。
 ということは、サタンの堕落によって茫漠となってしまった地であっても、神様はそれでおしまいとするのではなく、その後の回復を実践して下さるお方だということです。実際に今私たちが住んでいるこの世は、創世記1章3節以降に形作られた世界であり、そのしめくくりであるところの1章31章には「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」とあるように、非常によい世界を作って下さったのです。
 今日は創世記の最初の部分を聖書箇所として聖書宣教をさせていただきましたが、これから豊明希望チャペルの礼拝式では、少しずつ創世記を読み進めながら、神様の御業に目を留めていきたいと思っております。

【結論】
 というのが、今日の聖書箇所から考察されることでありますが、ここまでの内容をまとめて今日の聖書宣教を閉じさせていただこうと思います。
 まず、創世記1章1節がすべての最初であり、この時に作られた天と地は、私たちが今住んでいるこの世界とは異なっております。その世界には天使が住んでおりましたが、その天使長の高慢が原因となって、彼自身は天からよみに落とされてサタン、悪魔となってしまいました。それによって創世記1章1節で作られた天と地は形を失い、茫漠となってしまいましたが、その時に大水が残ったのか、この時に大水が出来たのかのどちらかということが考えられます。すくなくとも創世記1章3節以降に見られる6日間の創造の御業の中において神様は水を作ってはおられないのです。
 しかし、そのような茫漠となってしまった世界に対しても神様は母鳥が卵を抱くようにしていつくしみ、そこからの回復をもたらして下さったのです。それが6日間で作られた私たちの生活しているこの世界です。それこそ私たちにとって住みよい環境であり、神様の御力がそこに表されているものだという事ができるでしょう。来週は講壇交換で、豊明希望チャペルの礼拝式は三村師がみことばを取り次いだいただきますが、その次の週からは創世記の続き三節以降の箇所から聖書宣教を行ってまいります。神様のなされた御業に目を向けつつ、その整えられた環境に置かれたことに感謝を持って、主を賛美しつつ、主の御旨に適った信仰生活をおくるお互いでありたいと心から願っております。