マタイの福音書12章1〜8節 : 安息日の主イエス 

【序:旧約聖書の安息日】
 本日、マタイの福音書12章1〜8節を聖書箇所とさせていただきました。「安息日」という特別な日に起きた出来事でしたが、まずこの出来事を理解するために「安息日」とは何なのかについて聖書の記述を見ていきたいと思います。
 旧約聖書に最初に出てくる「安息日」ということばは出エジプトの20章「モーセの十戒」からです。出エジプト記20章8~11節に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。〜 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」とあるように、7日目が安息日であるという理解です。そしてこの7日目にはどんな仕事もしてはいけないという決まりが安息日に関する取り決めとして神様がモーセに対して語られた内容です。
 この7日間周期ということについて、十戒以前にも出エジプト16章のシンの荒野でマナが降り始めた奇跡の箇所に、マナを取り集める規定として5日間は毎日一日分、そして6日目には次の日の分まで二日分集めて、7日目にはしないようにという決まりがありました。このマナの規定についてはモーセの十戒が与えられる前に提示されたものでした。ということは、神様は出エジプト16章の段階で、すでに安息日の規定についてお考えにあったのでしょう。もしも毎日一日分を集め続けるということでしたら、安息日にもそれを集めるという仕事をしなくてはならないから、決まりを守ることに対する矛盾が生じてきます。そのようなことを見据えて神様はマナを取り集める規定を示すときに、6日間と7日目を異なった取り扱いをされたと考えられます。または、マナを取り集める規定がそのようなサイクルで行われたことをによって、7日目を安息日として特別にあらゆる仕事をしないようにという決まりを提示されたとも考えることができるでしょう。
 そして、この安息日規定については守らない人に対する罰則もあります。出エジプト記 31章13〜15節にそのことが触れられており、15節に「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。」とあります。この罰が実施されたこととして民数記15章の記録に安息日に薪集めをしてた人が石打にあって殺されているということがあります。
 そして守るものに対する祝福として、イザヤ書58章13,14節に次のようにあります「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。」
 しかし、具体的にどのようなことを「仕事」とみなすのか、安息日に何をしてはいけないのかについて、直接的な記述を聖書の中にそんなに多くは見られません。出エジプト記35章3節に「安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならない。」とかエレミヤ書17章21節に「あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。」というぐらいです。
 しかし、安息日に仕事をしてはならないとはいっても、例外の規定もあるのです。この安息日は「聖なる会合の日」という表現がレビ記23章3節に「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」とありますので、実は安息日ならではの集会を行っていたのです。それについては、民数記28章9、10節にも「安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。」とあることからも分かります。これは誰かの奉仕がなければできる行事ではないでしょう。ですから安息日にも勤務しなければならない人がいるのです。その規定として第二列王記11章5節に「あなたがたのなすべきことはこうです。あなたがたのうちの三分の一は、安息日に勤務して王宮の護衛の任務につく者となる。」という記述などに見られます。
 とまあ、安息日について聖書の中にそんなに細かな規定はないのですが、イエス様時代にあっては、この安息日についての取り決めとして随分細かな細則が登場します。きっかけとしてはイスラエルがバビロンやアッシリヤの国との戦争で負けたことがありましたが、その敗戦の理由がモーセの律法に忠実ではなかったからという判断が宗教指導者によってなされたのです。それは現代にも続いているのですが、ユダヤ人はモーセの律法613ある一つひとつの規定に対して、その律法を守り行うために細かな規定を作り出し、実践していったのです。特に安息日規定については1500ほどの細かな規定が律法学者によって作られていたといわれています。これが口伝律法と呼ばれるもので、その時代によってミシュナとかゲマラと呼ばれております。

【マタイ12章の出来事】
 さて、ここまでが当時の自体的背景というか、今日のマタイの福音書12章をみていく中で必要な予備知識ということになります。この箇所で、イエス様と弟子たちは安息日に麦畑を通って穂を積んで食べ始めたわけで、それを見たパリサイ人達が「安息日にしてはならないことをしています」と言っております。これは何が問題だったのでしょうか。この麦畑は当然、イエス様や弟子たちの所有している畑では無かったでしょう。そう言う意味で考えると、人の物を勝手にとって食べるという泥棒の罪を犯していると見なされるのでしょうか。しかしそれだと別に安息日に行わなくても、いつ泥棒をしても罪です。
 しかしイスラエルの国の規定ではこれは罪とは見なされないのです。もちろん人の畑に入って、そこから収穫物を持ち帰り、それを売りさばいて利益を得ているのならそれは犯罪になりますが、通りすがりの旅人や、お腹をすかせた人が自分の所有ではない畑から一つ二ついただいて、それを食することについてはイスラエルの国では今でも許可されている事なのだそうです。ですから、彼らの行為自体は、それが安息日でなかったのなら、特に問題視されることはありませんでした。
 しかし問題はこの日が安息日だったということにあります。旧約聖書の記述から安息日に仕事をしてはいけないという決まり事があるのは先ほど見たとおりです。では、マタイ12章で彼らはどのような仕事をしたと見なされるのでしょうか。
 彼らは麦畑の中を通りました。すると、彼の洋服に麦の実が引っかかってしまうことが考えられます。それは食べ物を「貯蔵」する罪になるのです。ですから、口伝律法には安息日に麦畑を通ってはいけないという決まりがあるのだそうです。麦畑を歩いた彼らの服に麦の実が引っかかってしまった可能性があるので、パリサイ人にとってはその麦畑を歩くという行為自体で律法違反とみなされます。まあ、これは不可抗力であり情状酌量の余地はあるのかもしれませんが、彼らは麦の穂をその手で積んだのです。これは「収穫」の仕事をしていると見なされます。またそれを手で揉み出しているのですから、これは「脱穀」です。そして籾殻と麦を分けているので、それは「分別」という仕事と見なされることになるのです。なんと彼らは安息日の規定の中から3〜4つの取り決めに対する違反を犯してしまったというのが2節のパリサイ人の発言によって糾弾されていることです。

【イエス様の反論】
 それに対してイエス様がお語りになっているのは3〜4節「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。」とあります。これは脚注にもみられるように第一サムエル21章1〜6節の記述です。サウル王に追われたダビデが安息日に祭司アヒメレクから、祭司にだけ許された供えのパンをもらい食べたという事実があるのですが、これについてパリサイ人達もダビデは罪を犯したとは見てはいません。それは人間の切迫した必要が律法の規定に優先するいう理解です。
 次に5節の「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。」というのは先ほども触れましたが、安息日でも仕事をしている人の存在が聖書の中からも見ることができることによります。神殿に仕える働き人が安息日律法のとりきめから除外されるというのなら、ましてや宮よりも大きな存在であられるイエス様に付き従っている人物が、その規定から除外されるのはなおさらだというのが6節の「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」ということです。
 また、さきほど他人の畑からでも自分の空腹を満たすために一つ二つをその場でいただいて食するというのは、旧約聖書中に見られる「あわれみ」の要素であり、イエス様が7節で「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」とおっしゃっているのがそのことです。ちなみに『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』はホセア書6章6節からの引用になります。
 そして8節でイエス様は「人の子は安息日の主です。」とお語りになっておりますが、これはイエス様が安息日律法の真の解釈者であること、それ以上に実は安息日律法を人々に提示した張本人であるということが表現されているものと見なすことができます。

【解釈適用】
 というのがマタイ12章の内容になりますが、私たちはここから何を学ぶことができるのでしょうか。安息日に他人の畑に入って食べ物をもらってきても良いということでしょうか? イスラエルの法律ではそれは罪ではありませんが、日本の法律ではそれは泥棒になってしまいます。畑の所有者にみつかったときに「聖書にやってもよいって書いてあるんです」という言い訳は通用しません。日本ではその日が安息日だろうといつであろうとも、人の畑から許可無しにその収穫物をもらってくるのは窃盗という犯罪になります。ですからこのような解釈適用はしないでください。

【安息日の曜日】
 では何が学べるのかということですが、それを考えていく中でもしも皆さんの間に誤解があってはいけないので、まず確認しておきたいことがあります。それは安息日は何曜日なのかということです。安息日は一週間の終わりの日です。一週間は日曜日からはじまりますので、終わるのは土曜日です。ですからユダヤ人は毎週土曜日を安息日として、今でも土曜日には一切の仕事は行っておりません。ですからまずはっきりさせておきたいのは土曜日が安息日であるということです。
 では私たちは土曜日に安息しているでしょうか。ユダヤ教的な理解では、安息日に1500程の細則を適用させなくてはなりませんが、それは考慮に入れないにしても、少なくとも火をたいてはいけないということは聖書からも見受けられます。土曜日にガスコンロに火をつけるのは聖書に書かれている安息日規定を破るものです。本気で守ろうとするのなら土曜日の食事は他の日と決定的に違うものになるでしょう。しかし、私たちはそのような区別をしてはいないはずです。

【土曜日に安息しなくても良い根拠】
 では、どうして土曜日も他の日と同じように生活をしているのでしょうか。誤解の無いように先に言っておきますが、今私は「土曜日に安息しなさい」ということを言うつもりではありません。結論から言うと、安息日の規定から私たちは解放されているのです。
 安息日を休みなさいという決まりは神様がモーセに対して語られたユダヤ人に対して要求されている決まりであり、それをそのまま現代に生きる異邦人である私たちに適用されないのです。旧約聖書で要求されている律法はイエス様が十字架上でいのちを捨てられたことによって、すべてが成就したのです。それは安息日律法に関しても例外ではありません。良く引き合いに出すことですが、レビ記11章に食物規定が出ておりますが、それによると豚肉やエビ、カニ、タコ、イカなどの魚介類も食べてはいけないことになります。私たちはその食物規定に関しては気にしないで毎日生活をしているでしょう。同じように私たちも安息日に関する取り決めに拘る必要はないのです。
 そのことについてローマ人への手紙14章5、6節に「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」とあります。要するに「ある日」、今日の場合は安息日と見なすことができますが、それが他の日に比べて重要だと考えても良いし、どの日も同じだと考えても良いということです。安息日に休むということに拘って生活すること自体は罪ではありません。大切だと思う人は積極的に土曜日にお休みすればよいのです。または、安息日律法はイエス様の十字架以降要求されなくなったという視点で、気にすることなく土曜日も普通に生活しても問題ないのです。このことについてコロサイ2章16,17節に次のようにあります。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」ということで、食物規定や安息日などの祭りの規定は、律法が表された後の将来にあきらかにされたイエス様を表しているというのです。本体はキリストにあるというのは、そのイエス様によって、食物規定や数々のカレンダーに関する取り決めから解放されたことを表していることでしょう。ですからマタイ12章8節でイエス様がご自分のことを指して「人の子は安息日の主です」とおっしゃっているのです。

【日曜日について】
 ところで安息日について触れるときに、多くのクリスチャンが勘違いしていることとして、日曜日が安息日だと理解して、安息日を守ることが現代においては日曜日に礼拝を守ることを要求しているということがあります。しかし、聖書は安息日と週の初めの日曜日は別物と区別しておりますし、日曜日に集まって礼拝しなさいという命令は聖書の中にも見いだすことはできません。
 ではどうして日曜日に礼拝するということが当たり前のように全世界で行われているのかということですが、それは使徒の時代にそのようにしていたということから来ます。使徒の働き20章7節に「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」とありますが、最後の晩餐でイエス様が弟子たちに語られた勧めを実践していることで、今日の聖餐式の原型と見なすことができるものですが、安息日に集まったのではなく、週の初めの日に集まったのです。それはイエス・キリストが復活したのが週の初め、日曜日だったからであり、このイエス・キリストが復活したということこそ、福音の本質として、最も重要な事柄だからであります。要するに日曜日に集まるということは聖書からの勧めや命令ではなく、当時の文化がそのまま受け継がれているということだと捉えられる内容です。
 しかしこのようにいうと「聖書からの勧めがないんだったら礼拝に出るのも辞めた…」となるとそれも間違いです。ヘブル人への手紙10章25節に「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」という勧めがあります。イエス・キリストを信じて救われた者同士が定期的に集まって主を礼拝するということ自体は決してないがしろにされるべき内容ではありません。聖書は公同の礼拝を行うようにと私たちに勧めております。それなしに私たちが「神の国とその義とを第一にする」という勧めを実践できているとは言えないでしょう。神を第一にするから礼拝を優先するのです。地域教会の責任者は礼拝を大切にするから、その教会に集っている人たちにとって礼拝に出席しやすい曜日と時間帯を確認して、その日に礼拝式を執り行うようにするのです。押しつけ的に信徒に日曜日仕事を休ませたり、信仰持ったことによって半ば無理矢理に日曜日お休みの仕事に転職させて日曜日に教会に来させているというケースをたまに聞くことがありますが、聖書は日曜日、週の初めの礼拝ということを絶対視してはいません。しかし、日本では一般的に日曜日がお休みという文化があります。ですから豊明希望チャペルはその日曜日の午前中を公同の礼拝式として他の曜日、時間帯と区別して「共に主を第一として神様を礼拝しましょう」と、この時間帯に礼拝式を行っているのです。そして教会の決定を主の主権に基づく決定と見なすのならば、ここに従うことこそが、信仰者として主に従うということにもなるでしょう。
 しかし、もしもサービス業に携わっている人が多く集まっている教会であるなら、愛知県では娯楽関係の施設が月曜日休みになっているところが多いようなので、そのような人のために月曜礼拝ということを実践するのは聖書の勧めに反していないというか、逆にそれこそ聖書的な視点で礼拝式を実践しているという理解から評価されるべき事と思います。

【結論】
 さて、若干話しが横道にそれましたが、今日安息日について触れることでどうしても伝えておきたい内容だったので、時間を割かせていただきました。今日の聖書箇所マタイ12章にもどりますが、中心聖句はその8節とさせていただきました。「人の子は安息日の主です」というものですが、安息日は「休む」という日でした。マタイ11章の終わりにも「休ませてあげる」と約束している箇所ありました。有名な聖句なので暗唱されている方もいらっしゃると思いますが、マタイ11章28節に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。イエス様が私たちを休ませてくださる。イエス様が私たちに安息を与えてくださるということでしょう。旧約聖書の時代の人は週に1回しかお休みすることはできませんでした。しかしイエス様は疲れて重荷を負っているすべての人に対して「わたしのところに来なさい」と招き、安息を与えてくれるという事を約束しているのです。先ほどコロサイ2章16節のみことばを見ましたが、そこには「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」とあるように、安息日律法の要求されていることが、イエス様によって成就され、イエス様の元に本当の安息が約束されているということです。そしてそれは週に1回という限定された期間ではなく、世の終わりまでイエス様は私たちとともにいて下さっているというみことばの約束に基づく確かな確信によって、いつでも永遠に与えられる祝福なのです。
 旧約聖書で安息日律法が要求していることはすでに成就したのです。ですから新約時代に生きる私たちはわざわざ休まなくても良くなったのです。いつでも安息できるのです。いや別な視点から見るのなら、既に安息に入っているといっても良いでしょう。それを私たちに提供してくださったのが、イエス・キリストの十字架の犠牲であります。
 今日は第一日曜日なのでこの後、聖餐式を執り行います。それはイエス様が十字架上で血を流し、肉体を裂かれたことを記念するものです。このパンと杯にあずかるときに、そのイエス様が十字架上で語られた「完了した」ということばが旧約聖書の要求している律法すべてを満たしてくださったことを意味しています。それによって、私たちには安息日に関する取り決めが適用されなくなったということが確認されます。イエス・キリストの復活を記念して使徒たちが週の初めに集まって、共にパンを割いて交わりを共にしていたのは、イエス様が最後の晩餐の席で勧められた聖霊典の実施であるという意識を持って、主のパンと杯にあずかるお互いでありたいと願っております。