待ち望むアドベント 1テサロニケ 4章15〜18節
<序・アドベント>
今週はアドベントの二週目になりました。この「アドベント」ということばですが、ラテン語の「来る・到来」という意味の単語です。何が来るのかというとクリスマスで、一般的にはクリスマス前の4週間を指して「アドベント」と呼んでいます。今年は12月25日のクリスマスが土曜日になので、その直前の日曜日が「クリスマス礼拝」となっています。それを4週目として、その4週間前がアドベント、待降節の1週目で、それが先週の日曜日でした。
また、このアドベントは日本語では「待降節」という表現がされますが、漢字をよく見ると「待つ」という事です。何を待つかというのが「降る」ということで、高いところから降りてくる意味ですが、これは天におられる神様が人となって降りてきて下さったことを意味しています。「節」とは「節目」ともいいますが、何かが変化する箇所や次期などを指す漢字です。ということで、この意味は神が人となって降りてきて下さったイエス・キリストの降誕を記念するクリスマスの日を待つ期間ということになります。
また、この「アドベント」ということばは、英語の「アドベンチャー」の語源になっているといわれています。「アドベンチャー」というと「冒険」という意味ですが、それと共に「ものすごい経験」とか「予期せぬ出来事」という意味もある単語です。アドベントが神が人となってこの世に降りてきて下さった出来事に関連する事から考えると、それこそ「ものすごい経験」「予期せぬ出来事」と表現して良い内容でしょう。
今から約2000年ほど前に、イエス・キリストがイスラエルのベツレヘムでお生まれになりましたが、それは旧約聖書の預言しているメシアが来られたことを意味します。ユダヤ人にとっては聖書が預言しているメシアの到来は「いまか、いまか」と熱心に待ち望んでいるものでした。その様な意味でイエス・キリストの降誕がアドベントなのですが、残念ながら多くのユダヤ人はイエス・キリストのことを旧約聖書預言のメシアであるとは認めていません。ですから、いまだにメシアを待ち望んでいるわけです。
しかし、イエス・キリスト、この方を旧約聖書の預言しているメシアであること認めている私たちキリスト教会の者たちにとって、その預言は既に成就した出来事であり、彼らの待ち望んでいたことを、過去のこととして振り返ることができているのです。
<再臨待望>
となると、旧約聖書の預言としてメシアが来るということについては、既に実現していると理解しているので、私たちはそのことを待ち望んでいるわけではありません。今日のメッセージのテーマを「待ち望むアドベント」とさせていただきましたが、過去に起きたことを待ち望むというのでは変な話しです。もちろん既に過去のこととして実現されたイエス・キリストの降誕を祝うクリスマスの日を待ち望むという意味がないわけではありませんが、実際に未来に起こることとして私たちが待ち望んでいる聖書の約束があるのです。今日は特にそのことについて、いっしょに学んでみたいと思っております。
ちなみに、今日の聖書宣教は「終末論」と表現されることがありますが、この世の終わりについて聖書がどのように教えているのか、何が起きると予告されているのかについての内容になります。先に申し上げておきますが、この終末論の理解については解釈が難しいところもあり、すべての牧師や神学者が今からお話しする内容をすべて同意できるかというと、そうではない立場をとられている方もいます。いくつかの注解書を見ていくと、これからお話しする順番や内容とは異なる解説がされている出版物もありますが、今まで私なりに学んできた確信に基づいて語らせていただきます。
<携挙の予告>
本日の聖書箇所として、第一テサロニケ4章を読んでいただきましたが、これは既に死んでしまった人が、その後どのようになるのかということが解説されている文脈の中で言われている内容です。16節によると、ある時が来たら「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられる」というのです。これはイエス・キリストがもう一度天から降りてくる約束で、このことは専門用語で「再臨」と言います。
イエス・キリストは十字架に架かって死にましたが、その復活の後、天に帰られました。しかし、いつの日かもう一度この地上においでになるということが聖書に約束されています。 使徒の働き1章9?11節にはイエス様が天に上って行かれた時の描写として次のようにあります。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」イエス・キリストの最初の到来は赤ちゃんとして生まれましたが、二回目は天にあがったのと同じ姿で、成人として一度この世に現れるということを約束しているのです。
イエス様自らのことばとしても、ヨハネの福音書14章1?3節に「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とあり、イエス様が来るのは人々を迎えに来るのだというのです。今日の聖書宣教の箇所として読んでいただいた第一テサロニケ4章17節にも「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」と言われています。なんとイエス・キリストが空中に現れたときに、私たちも引き上げられるのです。
今から約2000年イエス・キリストは肉体を持ったまま天に上って行かれましたが、もう一度この世に現れ、そこで私たちは空中でイエス・キリストと会えるというのです。まさに「ものすごい出来事」としてのアドベンチャー、アドベントと言うことができるでしょう。
<携挙される人>
この事を専門用語で「携挙」というのですが、読んで字のごとく携え挙げられるという意味です。そしてここで携挙される人について、マタイの福音書24章37から41節に次のように書かれています。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とあるように、引き上げられる人とそうでない人がいるのです。この違いは何かというと、イエス・キリストに対する信仰があるかないかということです。第一コリント15章にもこの携挙のことが触れられており、51節と52節には「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」と携挙の時の様子が書かれています。そして、ここで言う「私たち」がどういう人なのかというと、57節に「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」と言われているように「イエス・キリストによって勝利が与えられた人」だと理解できます。そしてヨハネの手紙第一5章5節には「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とありますので、イエス・キリストに対する信仰によって勝利が与えられた人たちが、この世の終わりの時イエス・キリストが再臨されるとき、空の上に携え挙げられ、そこでイエス・キリストとお出会いするようになるのです。
<携挙のタイミング>
このようなことを聞くと、いったいいつこのような出来事が起こるのかと興味がわいてくることでしょう。しかし、結論から先に言うと、それはいつかは分からないのです。先ほどマタイの福音書24章37節から41節を紹介しましたが、その続き42節から44節に「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。何の予告もなくある日突然、イエス・キリストが来られ、彼を救い主として信じる信仰者がこの世からいなくなるのです。
第1テサロニケ5章1から3節にも「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」とあります。特にいつもと同じような生活を続け「平和で安全」を実感しているときに突然やってくるというのです。
<携挙後の大患難>
では、この地球上から一気にイエス・キリストを信じる人たちがいなくなった後、どうなるのかということですが、 第1テサロニケ5章3節の終わりに「…そのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」とあります。どうやら大変なことが起こるらしいのですが、これについても専門用語では「患難期」とか「大患難」というように言われます。
そのときどのようなことが起きるのかというと、ダニエル書12章1節に「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」と書かれているように「かつてなかったほどの苦難の時」だというのです。またそれが7年間の出来事であると言うことは、ダニエル書9章から推察されます。また新約聖書の黙示録5章から18章にはその7年間にどのようなわざわいのような出来事が起きるのか記されています。それらについては今日の聖書宣教のテーマとは異なってくるので詳しく触れることはしませんが、とんでもない大混乱の様子が読み取ることができます。できることなら体験したくない、避けたいと思われるような内容です。しかし、黙示録3章10節に「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と言われていますし、先ほども確認したように、この大患難の期間に入る前にイエス・キリストを救い主として信じている人たちは携挙され、この世からいなくなっているので、何も心配する必要はありません。また私たちが現在、自分たちの愛する友人、知人、家族に福音を伝え、その方がイエス・キリストに対する信仰を持って欲しいと願うのも、その人達がこの悲惨な患難期を経験することがないようにという願いから行っている宣教という側面があると言うこともできるでしょう。聖書の預言に対して正しい理解を持つのであれば、それが人々に福音を証しするきっかけとなって働くようになります。患難期の悲惨さを知れば知るほど、自分の大切に思っている隣人に対して「この人にはこのような体験をして欲しくない」という思いから聖書のことばを証ししていくのは至極当然のことであるはずです。なにしろ、これは前ぶれなくある日突然訪れる出来事だからです。
ただ、この大患難も7年間で終わりです。その最後に実はイエス・キリストの再臨があるのです。マタイの福音書24章27節から30節に「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」と言われています。ここで「人の子」と言われているのがイエス・キリストで、地上のあらゆる種族によってその姿が認められるのです。冒頭に紹介した携挙、空中再臨と区別する為に、こちらの出来事を「地上再臨」といわれることがあり携挙とは別のものです。空中再臨、携挙はいつそれが訪れるのかは分かりません。しかし地上再臨は患難期が始まってから7年後で、黙示録16章に書かれている「ハルマゲドンの戦い」と言われている世界戦争が起きてからであります。
<再臨後・1000年王国>
そしてそのイエス・キリストが、みからだをもってこの世に再臨された後については、黙示録20章2節から6節に書かれています。「彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」ということで、神様を信じ続けた人たちがよみがえってイエス・キリストと共に王として1000年の間、この世を支配をするというのです。これが専門用語で「千年王国」と言われているものであります。この期間サタンが縛られているので、悪の根源が活動することができなくなるため、それ以前の大患難の期間とはすっかり変わった平和な1000年間がやってくるということになります。(図示)
患難期の最初の段階では一度イエス・キリストを救い主として信じる者たちはいなくなりますが、残された人々は信仰者がすっかり姿を消してしまった出来事を目の当たりにします。しかしそれがきっかけで残された聖書や様々な信仰書、ビデオ映像などを通して、新たに信仰を持つ人たちが起こされてくるはずです。とはいえ、その人達は患難期よりも前に信じ受けいられることができなかったことで、苦しみの期間を通過しなくてはならなくなりました。しかしその様な人たちのために配慮されていることとして、マタイの福音書24章21、22節に「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」と慰めのメッセージが語られています。神様はその時代に新たに信仰を持った人たちに対しても、彼らが救われるように、あまりに長い期間苦しむことがないように、日数が少なくされるという愛とあわれみの手をさしのべておられる事が分かります。
今日のメッセージテーマは「待ち望むアドベント」とさせていただきました。この時代の信仰者にとってもこの悲惨な患難期が通り過ぎて、イエス・キリストが地上に再臨することを熱心に待ち望むようになるはずです。旧約時代のユダヤ人がメシアを待ち望み、新約時代の私たちが空中再臨、携挙を待ち望み、患難期の中で信仰を持った人たちが再臨を待ち望むのですが、それはすべてイエス・キリストを待ち望んでいるのであり、すべての時代における希望がイエス・キリストだと言うことができます。
<中心聖句>
本日の中心聖句は、ピリピ人への手紙3章20節とさせていただきました。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」ということで、ここにはイエス・キリストを救い主として信じる者たちが神様の領域である天に属しているということの宣言と、将来の希望としてイエス・キリストがもう一度この世に降りてきて下さる約束を「待ち望んでいる」と表現されている箇所です。先ほど確認したように、この聖句はどの時代にあっても人類に与えられている希望であり、現代の患難期前、携挙以前に生活している私たちも、この約束を握りしめ、確かな確信を持って待ち望んでまいりましょう。
今日この後、聖餐式を執り行いますが、この聖餐式のなかで読まれる聖書箇所として第一コリント11章のみことばがありますが、その26節に「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と書かれています。聖餐式で私たちが口にするパンと杯は、私たちの身代わりとしてイエス・キリストが十字架上で肉体が割かれ、血を流されたことを記念しているものです。これをイエス・キリストの再臨の時まで実践することで、この大いなる犠牲を思いめぐらすとともに、みことばにある約束に目を留め、やはり再臨の希望を持って、忍耐強くこの世での生活にのぞむことができるようになるとも言うことができると思います。
最後にコーヒータイムの交わりのテーマですが、携挙が起きた後の世界がどのようになるのかについて考えてみたいと思います。まさにそのことをテーマにして書かれたレフトビハインドという小説がありますが、読まれた方はいらっしゃるでしょうか。またはDVDでも「人間消失」というタイトルでリリースされてますのでレンタルで見ていただくことも可能です。全くその通りではないにしても、けっこう的を射ていると思います。そしてある日突然私たちがこの世からいなくなったとしたら、残された人たちがどうなるのだろうか。そしてそれでよいのか。その人達のために私たちがいまできることは何なのかということなどをお話ししていくことができればと思っております。