マルコの福音書1章40〜45節 ツァラアト患者の癒し

<ツァラアトについて>
 新改訳聖書が第3版に切り換えられたことによって大きく変更された内容に、ツァラアトという病気についてがあげられます。これは第2版までは「らい病」と訳されていました。現代の私たちにとって「らい病」とは「ハンセン氏病」とも言われる病気で末梢神経の細胞内に細菌が入り神経障害や皮膚症状が見られるものです。ちなみに今「らい病」という表現自体が差別用語に見なされるので、公の文書には用いることができなくなっています。それが元で、新改訳聖書から「らい病」という表記をなくそうという動きが出て、第3版から削除されて「ツァラアト」と書き換えられているのです。「ツァラアト」とはヘブル語の音訳です。それが、ギリシャ語に翻訳される段階で「レプラ」という病気のことばを当てられていて、新約聖書でこの「ツァラアト」のことを表現するときに「レプラ」という単語が用いられています。しかし、レプラとは元々、ハンセン氏病のことを言っているのではなく、皮膚の表面にできる粉状のものを意味する医学用語です。要するに肌が荒れてカサカサになっているのもレプラですし、頭洗わないで何日かたつと現れる「ふけ」もレプラなのです。
 しかし、聖書で言う「ツァラアト」というヘブル語で表現されている病気は、このハンセン氏病のことを指しているわけではありません。ツァラアトがどのような症状なのかというのがレビ記の13章に書かれています。症状としては3節の、患部の毛が白く変わってその患部が他の部分よりも深く見えるということです。しかし、47節を見ると衣服できるツァラアトについての記述があります。また、14章35節によると家の壁にもツァラアトはできるのです。もしも、ツァラアトがハンセン氏病だとすると、衣服や家の壁にはできません。ですからツァラアトとは他の特殊な皮膚病を指すものであり、それが具体的にどのようなものであるのについては、現代においては特定することができない病気、症状であるのです。なにしろ「ツァラアト」であるかどうかを宣言できるのは医者ではなく「祭司」だけであります。医学的な問題ではなく、宗教的な問題によって現れる現象がツァラアトだからです。
 ちなみにその判定は7日間、祭司によって随分細かくその患部の様子が観察されます。その間隔離されるわけですが、その観察結果でツァラアトではない場合、祭司によって「きよい」と宣言され、解放されます。しかしツァラアトだと認められた場合「汚れている」と宣言さますが、その瞬間から彼の生活はがらっと変わります。レビ記13章45節以降がそれですが、その人はその日着ていた上着を引き裂いて、髪の毛を乱し、口ひげを覆います。しかも歩いているとき、誰か向こうから歩いてきたならば「汚れている、汚れている」と叫ばなくてはならないのです。それは、もし健康な人がツァラアト患者に触れると、その人も汚れることになってしまうからです。そして、住居はツァラアト患者だけが入ることの許されている特別な地区に移されます。そのようにして彼はユダヤ人の交わりから疎外され、幕屋や神殿に入って霊的な祝福を受けることができなくなります。
 また第2歴代誌の26章にウジヤという王が出てきますが、彼が祭司たちをさしおいて香をたこうとしたときに、神様が彼を打ち、ウジヤ王がツァラアトに犯されたという記事があります。このことから当時のユダヤ人達の理解では、ツァラアト患者は神のさばきの元にあるという前提がありました。
 そして、ツァラアト患者が癒された場合は何をしなければならないのかということが、このレビ記14章に書かれています。まずは、祭司が彼のからだの隅々まで調べて、ツァラアトの痕跡がないかどうか調べるます。そうして患部が癒されているなら、二羽の鳥を捧げるように命じられています。第1の鳥が殺されて血が流され、それを第2の鳥に注ぎかけられて第2の鳥が自由にされます。そこから7日間、様子が見られ、再度その病人が診断されます。そして問題がなければ、彼は自分の衣服を洗い、体中の毛をみなそり落とし、水を浴びます。そのようにして祭司から「きよい」と宣言され、ユダヤ人の交わりに復帰することができますが、その次の8日目は特別な日で、儀式が行なわれます。10〜20節がそれですが、雄の小羊2頭と雌の小羊1頭、および穀物の捧げものがなされます。まず動物がほふられその血を、癒された人の右の耳たぶ、右手親指、右足親指にそれぞれ塗ります。また油も同様に癒された人に塗って、最後に全焼のいけにえと穀物の捧げものをして、祭司はその癒された人を「きよい」と宣言します。かいつまんでお話ししましたが、随分面倒な規定です。
 しかし、興味深いことに、律法が完成されて後、ユダヤ人の中ツァラアトがいやされたという記事は出てこないのです。旧約聖書の中に二人ツァラアトが癒された人物が出てきますが、民数記12章にモーセの姉、ミリヤムが癒されていますが、これは律法が完結する前です。第2列王記5章にナアマンという人がツァラアトに犯された後に癒されていますが、彼はユダヤ人ではなくシリア人でした。このように、ユダヤ人がツァラアトからいやされたという記事は、律法が与えられて以降、出てこないのです。
 記録がないだけで、本当は何件かあるのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ツァラアトであるかどうかというのは祭司だけが宣言できるわけで、何でも事細かに記録するユダヤ人なら、そのことは記録が残っているはずです。実際にユダヤ人の中に伝わるラビ文書の中には、いろんな病気がいやされた記述が残っていますが、ツァラアト患者が癒された記事は出てこないのです。
 神様が罪人を厳しく取り扱われるということを示すために、ラビ達はこのようなことを言っていました。それは「メシアである方が来てその方が癒すのでなければ、ユダヤ人のツァラアト患者が癒されることはあり得ない」という教えでした。

 イエス様が来られるまでユダヤ人は奇跡を二つの分野に分けて考えていました。それは、もし誰かが神の力を受けたのなら、その人が何ものであっても、神の力によって行うことができる奇跡と、メシアだけがいやすことのできる奇跡です。福音書の中にイエス様の奇跡がいくつか記録されていますが、神の力によって誰でも行うことができる癒しが行われても、さほど大きな影響は与えておりません。しかし、メシアだけが行うことができるという癒しが行われた場合、人々は驚くような反応を示しております。そのメシア的な癒しというもの中に「ユダヤ人のツァラアト患者が癒される」ということがあったのです。ということはユダヤ人の理解において、ユダヤ人のツァラアト患者を癒す人は、自動的に自分がメシアであるということを宣言していることになるのです。
 序論が随分長くなりましたが、このような予備知識がこの個所を理解する上で助けになるというか、逆にこのことを知らないでいると、この箇所の本当の意味について理解することが難しくなります。

<マルコ1章>
 やっと本日の聖書箇所に入っていきますが、40節でひとりのツァラアト患者が来てこのように言っています「お心一つで、私はきよくしていただけます。」ユダヤ人はツァラアトになったとたんに汚れているわけですから、他の人に触ってもらうことは要求できません。彼は人のそばに近づくことのみできるわけです。また、この平行記事ルカの福音書5章12節では「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。」と「全身」と表現されています。つまり、この人のツァラアトは全身に広がって、とても重傷であること、そしてあまりこれから先長くない、という意味が込められているのでしょう。
 そのようなツァラアト患者にイエス様は41節で「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われてその人にさわっています。イエス様はさわらなくても癒すことができたはずです。福音書中にイエス様が長い距離、離れていてもその人を癒したという記事がいくつか出てきていますので、さわる必要はありません。一つの町にいる間に30kmも離れた、他の町にいる人を癒すことのできる方です。しかし、ツァラアト患者のいやしにおいては「手で触る」ということが非常に大きな意味を持ってきます。これは非常な愛を表現していることです。この人は自分がツァラアトにかかって以来、人間の手の感触を受けたことはなかったはずです。それがイエス様によって、触れられるという体験を久しぶりに受けたのです。そのようにして癒しがもたらされたわけですが、この後44節でイエス様が「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして人々へのあかしのために、モーセが命じた物を持って、あなたのきよめの供え物をしなさい。」との命令はレビ記14章に記されている規定に基づいて処理をするようにという勧めです。
 「人々のあかしのため」とありますが、この人々とはユダヤ人の指導者達を指しているのです。イエス様はユダヤ人のリーダー達が、ご自分のメシア性について真剣に受け止めることを求めておられたはずです。本来なら、この人は祭司のところに行って、ツァラアトが癒されたことが確認された場合、次の7日間で患部が観察され、この人は祭司が「ツァラアトである」と宣言したツァラアト患者であったかどうか、また彼が完全にツァラアトが癒されているかどうかが判断されます。そしてそれが癒されたとなると大問題です。いままでにユダヤ人の中でツァラアトが癒されたという記録がなく、ツァラアトが癒されたのなら、そのいやしをもたらした方は旧約聖書に預言されているメシアであるはずだと、祭司たちは理解していたのですから。
 ですからこのツァラアト患者のいやしの奇跡は、イエス様がご自身のメシア性を宣言する性格をもったお働きであったということです。だからイエス様は、癒されたこの男に「誰にも何も言わないように」とおっしゃっているのでしょう。祭司による正しい判断がなされる前に噂が広まってしまうと、群衆はいったい何が起こったのか、イエス様が何ものであるのか、正式な段取りをふまえていないので、混乱しかねなかったわけです。

<いやしの後>
 ところが、この癒された人はどうしたのかというと、45節に「ところが、彼は出て行って、この出来事を触れ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表だって町の中に入ることができず、町はずれの寂しいところにおられた。」とあります。
 彼はあまりにも嬉しかったのでしょう。祭司に見せて判断され捧げものをすることなく、自分の身に起こったことを言い広めてしまいました。祭司たちも混乱したことでしょう。律法の規定通りに観察したり捧げものをすることができなくなったわけです。またイエス様にしても、45節に「そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた」とあるように、彼の行動によってイエス様の働きについても影響を与えてしまったということです。
 もしも、彼がイエス様から言われたとおりに、祭司のところに行って、診断をしてもらっていたとしたらどうだったでしょうか。律法の規定に従って8日間は様々な段取りで儀式がなされることになります。そして、そのことが確認されたら、祭司たちはどうしてその人が癒されたのかということが問題として取り上げられたことでしょう。そして彼の発言から、イエスという方によって癒された、ということが確認されたことでしょう。そうなると、このイエスという方が、旧約聖書によって約束されたメシアであるのかどうなのか、ということが問題として取り上げられるわけです。
 もちろんこの出来事は、正式な段取りを経たわけではなかったにしても、祭司たちによって、癒されたことの確認がされたことでしょう。この出来事の後、マルコの2章の記述はひとりの中風の人が天上から釣り下ろされて、癒された記事があります。この時に数人の律法学者が同席していたとありますが、彼らはこの時にツァラアト患者のいやしを行ったイエスという人が何者であるのかを判断するために、様子を見に来ていた人達だと考えられます。
 とはいえ、結局イエス様がメシアであることについては当時の律法学者からは理解されず、イエス様の行っていたメシアとしての奇跡は「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」という結論に至り、イエス様のメシア性について否定されているのが4章22節あたりに書かれていることです。

<まとめ>
 ここまで、聖書に書かれている内容を確認してきましたが、いくつかポイントになることを整理してみましょう。
 まず、ツァラアトはらい病、ハンセン氏病ではなく特殊な重い皮膚病の類で衣類や家の壁にできることもある、宗教的な問題に伴う症状であること。
 その病気になった場合、また癒された場合にそれぞれ、どうしなければならないのか、旧約聖書のレビ記に詳細なに規定があること。
 そして、ツァラアトが癒されたとしたら、それは旧約聖書に預言されているメシアの奇跡であるというのが当時の理解であること。
 ですから、今日のマルコの箇所はイエス様がご自分のメシア性を明らかにするためになさった業であること。
 しかし、癒された人は、イエス様の勧められた律法の規定に基づいて処理をしなかったことによって、周りに混乱をもたらして、イエス様の働きが滞っているのです。
 といこうことが、今日のメッセージの箇所から確認されることです。

<適用>
 本日の聖書箇所は、ツァラアトに犯された人が癒された記事から共に学んできましたが、この中にツァラアトに犯されたことのある人いますか? または身の回りに、ツァラアト患者の知り合いがいる人とか? いらっしゃいませんね。仮にいたとしても、その人にレビ記の規定通りに祭司から判断してもらって、隔離されたりする必要はありません。それはレビ記の規定はユダヤ人に対してのみ適用される律法で、異邦人である私たちには関係のない事柄だからです。また仮に、ユダヤ人であったとしても、イエス様が十字架上でいのちを捨てられたときに「完了した」と叫んでおられますが、そのことによってモーセ五書にある613の律法の要求は全て終わったわけなので、レビ記13、14章の規定通りにする必要は無くなったのです。そのように考えると、今日の箇所はイエス様が十字架に架かって以降の異邦人には何も関係のない様なことになってしまいます。しかし、この聖書箇所も神様が私たちへメッセージを送ってくださっていると思います。最後にその意味について一緒に考えてみたいと思います。

 今日の聖書箇所から、イエス様が旧約聖書の約束されているメシアであることの、一つが明らかにされています。旧約聖書の約束しておられるメシアとはどういうお方であるかというとイザヤ書53章3〜5節に「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。この「私たち」とはここにいる私たちのことです。そして、このイザヤ書の記述はイエス・キリストの十字架の犠牲について預言している箇所です。ですから、イエス・キリストの犠牲によって、私たちの罪からくる罰が取り除かれ、私たちに平安と癒しが与えられたのです。ツァラアトが癒されたわけではありませんが、それと同様かそれ以上の大きな癒しがもたらされたと考えても良いでしょう。

 そして、ツァラアト患者は癒された場合、他の人に触れ回ることなく、祭司に判断を仰ぎ、レビ記の規定に則って儀式をしなくてはならなかったものですが、私たちにそれは当てはまりません。逆に私たちにはマルコ16章15節でイエス様が「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」とお語りになっています。これが本日の中心聖句ですが、私たちは黙っていなくて良いのです。かえって「宣べ伝えなさい」と勧められているのです。すでにイエス様が旧約聖書の預言に基づくメシアであることは新約聖書のなかで確認されている内容です。
 マルコ1章で癒された人は言い広めることでイエス様の働きを妨げましたが、今度私たちは黙っていることで、イエス様の働きを妨げるようなことにもなるのかもしれません。なにしろツァラアト患者に「誰にも何も言わないように」と言われたイエス様が私たちには「宣べ伝えなさい」と語っておられるので、そのみことばの勧めに基づいて、私たちは大胆に証しする者であろうではありませんか。しかし、そのときにも伝える相手を混乱させることなく、愛と配慮と知恵を持って実践していく者でありたいと願っております。