ヨハネ6:5〜14 5つのパンと2匹の魚

【序論】
 本日の聖書箇所は、4つの福音書全てに出ている奇跡なので1度聖書を読むだけでも4回登場するお話です。ですから大変有名なものですので、この話を知らない人の方が少ないと思います。どうして、この出来事が福音書を書き記した4人が、全員この出来事を省略させることなく記録していのかというと、まずこれが相当インパクトの強い出来事だったからでしょう。そして、聖書中に繰り返し書かれているということは、それが「重要なこと」だということを表しています。神のことばである聖書は、同じ箇所を読み同じメッセージを聞いても、聞く人によっては違った取り扱いを受けたり、聞くときによって、その都度新しい発見があるものです。ですから、すでに知っている話しではあるでしょうが「今日はこの箇所から何が心にとどまるだろう」という思いで耳を傾けていただければ幸いです。

【イエス様のことばと弟子の反応】
 それでは重要な真理が書かれている今日の聖書箇所を共にながめていきたいと思いますが、イエス様の元にはいつも大変大ぜいの人たちが集まっていました。それはイエス様がそれまでに病人を癒したり悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたりしたこともありましたので、人々はイエス様を慕ってついてきたのでしょう。またイエス様語られる神の国の話しは大変興味深く語られる真理から、人々に希望を与えるようなものだったことから沢山の人たちが集まってきていたのです。
 今日の出来事は10節に「男たちはすわった。その数はおよそ五千人だった」とあります。マタイの福音書14章21節には「女と子どもを除いて、男五千人ほど」というように書かれていますので、女性や子ども達を合わせると、1万人ほどの人たちが集まっていただろうと考えられます。そしてこの時そろそろ夕食の時間になっており、イエス様が弟子の一人であるピリポに次のようにいいます「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」これはイエス様がどうしようかと困ってピリポに相談したのではなく、6節にあるように、ピリポがどのように考えているのか試すために聞かれたものであり、イエス様はこの時すでに、彼らにどのようにして食事を提供するのか考えがあったようです。
 それはともかく、ピリポの答えは「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」というものでした。最近の礼拝でタラントとかデナリとかいう単位がしばしば登場しているので、毎週来られている方は覚えておられるかもしれません。1デナリは1日分の労働賃金なので、今の貨幣価値から考えると1万円程度になるでしょうか。そして「200デナリ」と言っているのでそれはおおよそ200万円と見なされます。この時、ここにいた人々は男、女、子どもも含めて1万人程度と考えると、200万円を1万人で割ると一人あたり200円ということになります。200円でどれほどのものが買えるかというとマクドナルドでハンバーガー2つ、回転寿司では2皿4カン、カップラーメンなら1つ半って感じですが、どれも夕食としてはちょっと物足りなさを感じる量でしょう。ですから200デナリで何らかの食料を調達したとしても、とても1万人を満足させることはできそうもないというのが、ピリポの計算だったわけです。
 次に8節にアンデレという弟子が登場します。彼は少年の持っていた、大麦のパン5つと二匹の魚の存在をイエス様に伝えますが「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と否定的な表現です。確かにこの程度の食料で1万人の胃袋が満たされることはとうてい無理な話です。ピリポもアンデレも、今手元にあるものでは、人々の必要を満たすことができないということをイエス様にお伝えしたということでしょう。

【奇跡】
 しかし、このあと驚くべき出来事が起きるのです。アンデレが「それ何になりましょう」と価値を見いだしていなかった、少年のお弁当であったであろうパンと魚を11節でイエス様は感謝しているのです。そして、それらを分けて人々に与え始めました。5つのパンと2匹の魚が1万人に分けられたというのですから、それから考えると一人分はごくごく少量ということになるでしょうか。しかし11節の後半には、人々は欲しいだけもらうことができたとありますし、12節には「彼らが十分に食べたとき」とあります。他の福音書に記録を見ても「人々みな、食べて満腹した」とあります。よっぽど大きな魚とパンだったのでしょうか。それはちがいます。この時イエス様が、感謝をして後それを割いて分け与えたときに何万倍にも量が増えているのです。一人分のお弁当だったものが1万人の胃袋を満たすほどの量に増やされたのです。しかも、それだけではなく、あまりまで出ました。それが13節で「十二のかごがいっぱいになった」とあることです。
 ラブキッズでは先月からイエス様の奇跡を、見ていってます。それは、ただの水をぶどう酒に変えたこと、病気の人に一言「立って歩きなさい」と語るだけでその病気を癒されたこと、吹きまくる暴風雨を「黙れ、静まれ」と叫ぶことでおさめたりしたこと、などです。これらはすべて、イエス様が人間の力をはるかに超えた「奇跡を起こすことのできるお方で」あることを表しているものです。今日も実際にこの出来事を目の当たりにした人たちの反応は「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言っています。このことばはイエス様に神の力が宿っていること、神様によって遣わされた人物であるという告白です。

【観察】
 というのが今日の聖書箇所ですが、これは浦島太郎や桃太郎などのおとぎ話ではありません。これは今から約2000年前に実際にあった出来事です。イエスという人物が実際に存在していたことと、そのお方が、多くの奇跡によってご自分が神様から遣わされたお方であること、神の子、神ご自身であられることを証ししているのが聖書の記録です。しかし「イエス様はすごい」だけで終わらせてしまってはもったいないです。聖書の中に繰り返しこの出来事が書かれているということは、ここに重要な真理が語られているからですので、是非それを汲み取っていきたいとものです。

 イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることのないお方であるというのが聖書に語られている真理です。イエス様は十字架に架かっていのちを落とされましたが三日目によみがえって、天に昇り今も生きて働いておられるのです。ですからこの聖書箇所に見られるような出来事は今でも起こりうるのです。
 では、今からスーパーマーケットに行ってパンを5つと魚を二匹買ってきて、それを教会に持ってきて祈れば、何万倍にも増えることが起こりうるのでしょうか。もちろん「それは神様には無理だ」とはいいませんが、この聖書箇所がそのようなことを約束してくれているわけではありません。この出来事から私たちが教えられることがどういう事なのかという視点で考える必要があります。

 このときイエス様のところには大ぜいの人々が集まってきていました。彼らの必要はイエス様が十分に理解していました。それは今日の箇所では「食事」ということです。ところで聖書の中に「人はパンだけで生きるのではない」と書かれています。もしもそのみことばを適用するのであれば、1万人の人々に対して、イエス様は食事を提供することなく、神の国のメッセージを語り続けていたことでしょう。しかしそうではなく、しっかりと彼らの食事を提供されたのは、私たち人間にとって食事の重要性が認められていることと、私たちにとっての必要なものは必ず与えられるということが確認されている出来事だと見なすことができます。
 
 今日の聖書箇所では少年が自分のお弁当をささげています。彼のお弁当がイエス様に用いられて、1万人の胃袋が満たされたのです。では、もしもこの時少年がささげることがなかったらイエス様がこのような奇跡を起こすことはできなかったのでしょうか。集まっている1万人のなかでほんの少しでも食料を持っている人がいないか、かろうじてパンを4つと魚1匹どうにかなったけどパンと魚がそれぞれ一つずつ足りないから増やすことができない…なんてことがあり得るのでしょうか。そんなことはありません。イエス様にはなにも無いところからすべての物を生じさせることができるお方ですから、もしも、このときに少年がパンと魚をささげなくても奇跡は行ったでしょう。では、この少年がささげたパンと魚にどれほどの意味があったのでしょうか。
 この時の少年は、イエス様の奇跡を目の当たりにしてどのように感じたでしょう。彼は自分のささげた弁当が用いられて1万人の人たちが満足してくれたのです。この時集まって満腹した1万人の中で一番嬉しかったのは、この少年だったのでなかったでしょうか。確かに人々の注目は魚とパンを増やしたイエス様に向けられたのでしょうが、そのきっかけは彼のささげたパンと魚だったのです。
 それにイエス様は彼のささげたパンと魚を感謝しているのです。彼のささげたわずかなものでありましたが「そんなものささげてくれなくても、自分の奇跡の力で1万人程度の食欲満たすことぐらい簡単!」ということは言いません。イエス様は私たちが信仰を持ってささげたものに対して、感謝して受け取ってくださるお方なのです。ささげた人の心をイエス様はご覧になって、それを喜んでくださるということでしょう。ささげるということは、神様に対する信頼に基づく行為です。逆にささげられないのは神様に信頼していないことになるでしょう。神様に対して信頼しているから、神様への信仰があるから私たちは神様にささげることができるのであり、神様はその私たちの信仰に基づく行為に対して感謝をしてくれるのです。

【ささげること】
 今日の出来事で最初に登場したのはピリポでした。イエス様はピリポを試されたように、神様は私たちをも試すことがあるでしょう。何かが不足している現実を見せて「さあ、どうする?」という質問を私たちにすることがあります。ピリポが「200デナリ」という具体的な金額を言っていますが、この200デナリというのは彼らが当時持っていた現金だったかもしれません。それは、その時一緒にいた群衆の必要を満たすほどのものではありませんでした。しかし、その後に1万人の必要を満たしたのは、それよりももっと少額であったであろう、5つのパンと2匹魚だったのです。これを金額に換算すると1デナリにもならなかったでしょう。それがイエス様の手にかかれば、何千倍にも増やされたのです。

 私たちのところにあるものもわずかかもしれません。しかしだからといって、それくらい神様にささげたからと言って、それがどれほどの足しになるだろうか…という視点は今日のピリポの発言と同じでしょう。イエス様の働きに関して言うのなら、別に人間が何かしらをささげなくても何でもできるお方です。そういう意味では、イエス様の方から何かを私たちに要求しているということはないでしょう。私たちが神様にささげなくても、神様の方で何か困ることはありません。しかし、私たちが神様にささげた時に、少年のお弁当を感謝されたように、私たちの捧げものをイエス様は感謝してくださり、それを用いて御業を成してくださるお方なのです。
 先月ラブキッズの時間に水がぶどう酒に変わった奇跡を学びました。その時手伝いの者たちはそれがどこから来たのか知っていました。ただの水だったのです。そしてその彼らの行為によって、彼らはイエス様の力を知りました。今日の箇所は少年が5つのパンと2匹の魚をささげたことでイエス様のなさった奇跡です。彼が自分のお弁当をささげた故に表された神様の力を見れたのですから、それは彼にとっても大きな感謝だったことでしょう。

【適用・実践】
 私たちも神様に対してささげることに積極的であるものでありたいと願います。それはささげないと神様が困るわけではありません。逆にそれが私たちのためになるのです。聖書の中にある多くの勧めは「神様の都合」ではなく「私たちへの祝福」の為です。私たちが神様にささげないと神様が御業ができないわけではないのです。しかし、私たちがささげることによって、主の御業に共に関わる祝福にあずかれるのです。
 それはお金や物理的なものに限りません。今日の箇所では食料が不足していました。そのときにわずかな食料をささげる事によってなされた奇跡です。私たちも不足している物を主にささげるということが、そのことついて自分が神様に信頼しているという意志表示になります。その私たちの心の状態を神様が見ておられるから、それを神様が感謝してくださり、それを用いて神様の御業がなされます。そしてそれが自分自身の必要を満たすどころか、パンと魚が12のかごいっぱいに余ったように、それから後に用いられるものとしての蓄えも与えられるということにつながるのでしょう。
 神様への信頼と共に、ささげることに関して、積極的であるお互いでありたいと願っております。