1コリント11章2〜16節 「かぶり物の意味」
【かぶり物】
先週、ジムニールセン宣教師による聖書宣教で一週お休みさせていただきましたが、それまでのチャペルの聖書宣教では、第1コリントからの学びを続けておりました。本日は11章2節から16節までを読んでいただきましたが、この内容をざっと大雑把にみると、女性が祈る時にはかぶりものをすべきであるということが書かれていたのが分かると思います。
ここでいう「かぶり物」という表現ですが、日本語で「かぶりもの」という単語でインターネットで検索すると、変装や仮装するときに頭に乗せたり、顔にかぶったりするものの写真がヒットしました。または頭にかぶるというと、帽子のような物をイメージするかもしれませんが、このような物をさして「かぶりものをするように」という勧めがされているというわけではありません。ですから、なんでも良いから頭に載せればよいかというと、そうではないでしょう。では、どのように考えられるのかということですが、この聖書箇所を根拠に、キリスト教会の中で女性は礼拝中にかぶりものをするようにすすめているグループがありますので、まずそちらで実践している例をいくつか紹介したいと思います。
まずカトリック教会の場合、修道女、シスターの服装をイメージしていただくと、よいでしょう。マザーテレサの写真などを見ると、常に頭に頭巾のようなものをかぶっており、髪の毛が見えないようになっています。これがかぶり物としての頭巾です。これは修道女の姿ですが、カトリック教会では他の一般の女性の信徒も礼拝の中でかぶり物をすることがあります。それがベールです。カトリック教会には「教会法」というものがあって、その1262条2項に女性がベールをかぶることがうたわれていたそうです。過去形で言っているのは、それが1983年に改定されたときに削除されて、現在のカトリック教会の教会法には、女性がかぶり物をするようにという勧めがなくなっているということによります。そのため、現在は全ての女性が必ず毎週かぶっているわけではないようですが、洗礼式があるときなど特別な時にはベールを頭にかぶることをしているようです。
では、プロテスタント教会ではどうなのかというと、プリマス・ブラザレンというグループで、このかぶりものを実践している教会があります。実は私が信仰を持って最初に通い、洗礼も受けた教会が、このプリマス・ブラザレンというグループの教会で、この教会では女性が洗礼を受けた時に、教会からその人にベールがプレゼントされておりました。私の母と姉はベールを持っており、礼拝に出席するときにはベールをかぶって着席しておりました。このプリマス・ブラザレンの教会で礼拝に出席する女性がかぶり物をするということの根拠が、この今日の聖書宣教の箇所、第1コリント11章が根拠となっているということです。
実際に今日の箇所を確認すると、5節に「しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。」10節「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。」とあるように、女性に対してはかぶり物をするようにとすすめられている事が分かります。
【なぜ私たちはしないのか】
しかし、私たちは礼拝の中で、普段女性がかぶり物をしている姿を見ることはないと思います。では、どうして私たちは、この第1コリント11章ですすめられている「かぶり物」を実践していないのでしょうか。まず、それの理由を考えてみたいと思います。
結論から先にいうと、女性にかぶり物が勧められているのは当時のコリントの文化によることだったからです。まず13節に「あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。」とあります。ですから彼らの常識の中で考える事によって、女性が頭に何もかぶらないで神に祈ることがふさわしくないことだという感覚があったという事が分かります。14節前半にも「自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。」ともいわれており、その内容が14節後半から15節前半で「男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。」ということです。これによると男の長髪ははずかしく、女性の長髪が栄光だと言われています。このような感覚は、現在の日本の文化の中に当てはまるでしょうか。ショートヘアーの女性は沢山おりますが、その事で揶揄されたり、髪が長い女性がそれによって称賛されたりはしないでしょう。
男性の長髪ということについても、JECAの教会の中にも後ろで髪の毛縛っている牧師が青森におります。だからといってこの牧師の長髪を非難する人もおりません。かく言う私も、専門学校の頃や、神学校時代から卒業後母教会に赴任している間の約3年間は伸ばし続けていた時代があり、最も長かったときには20cmほど後ろ髪を縛っていたことがありました。男性の長髪は確かに少数派でしょうが、だからといって、日本ではそれが男性として恥ずかしいことだというように評価される文化ではありません。そして、今日の箇所16節を見ても「たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。」とあるように、あくまでも「習慣」として言われている事だという事が分かります。
逆に、旧約聖書の勧めをみると、レビ記19章27節に「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。」という勧めがあります。 びんの毛とはもみあげのことで、超正統派のユダヤ人の中にはこのみことばを根拠にもみあげ部分を伸ばしている男性も沢山おります。彼らは髪の毛を長く伸ばしているわけですが、その事を否定的に捉えていることもないでしょう。
また当時の文化的なことをいうと、コリントの町では、女性が短い髪の毛をしていたり、髪の毛を剃っているのは、異教の神殿娼婦や売春婦がそのような姿をしていたという記録があります。ですから、パウロは今日の箇所5,6節で「しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」と言っているのでしょう。女性の長い髪と、かぶり物との関係については15節で「女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」と言われています。ですから、女性ががぶり物をしないということが、他の人の目から見ると、その人が売春婦であるかのように映ってしまうということです。
そういえば、第1コリント10章では、偶像に捧げた肉を食べて良いのか悪いのかということについて触れられており、そこには他者への配慮が必要であるということが語られていました。ですから、女性ががぶり物をするかしないかによって、その人自身には特に何の影響もないとしても、それを見る人へのつまずきとなる事のないようにということが、その人自身の行動の基準として適用されるという事が言えるでしょう。
【かぶり物の意味】
では、かぶりものとは何を意味するのかということについてですが、3節には「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」とあります。これは見方によっては男尊女卑の思想が表されているようにも感じられるかもしれません。しかし、3節の最後には「キリストのかしらは神です」という表現があります。ここで「神」といわれているのは父なる神様のことですので、この父なる神様とイエス・キリストとの関係に優劣があるはずがありません。この個所の説明として、8,9節が書かれていると考えると、そこには「なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」と人間を創造された経緯について触れられています。たしかに、最初に作られたのは男性で、その男性の脇腹から女性が造られたということが、創世記2章に記されておりました。その時神様は18節で「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とお語りになっております。ここではその男女の関係について男性の助け手として女性が作られたことを「かしら」という表現をしていると考える事が出来るでしょう。ちなみにここで「助け手」と訳されている単語は「エゼル」というヘブル語で、神様が人間を助ける時の表現に用いられているのです。という事は女性が男性の助け手「エゼル」とはいっても、男性の下につくものではなく、かえって神様が人間を助けるようにして守って下さるというような意味のあることばなのです。
パウロがここで男尊女卑的な考え方をしているのではないということは、11、12節の表現からも分かります。ここには「とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。」と男女の平等についてもこれと同じ文脈の中でで語られています。そして、男女が平等であるということについては、パウロの手による他の手紙、ガラテヤ3章27、28節を見ると「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」とあるように、どちらかが優れていて、どちらかが劣っているということはないと宣言されています。
確かに男性と女性の違いは明確でしょう。身体のつくり、感じ方、考え方、日常生活の中における必要や一般的に興味を持つ物について傾向の違いははっきりしてくると思います。実際に男性と女性の違いについてたくさんの書物が出ており、いくつかは私自身も目を通しておりますが、妙に納得したり、新たな気づきが与えられたりすることがあります。ではどうして異なっているのかというと、これは役割の違いであって、主にリーダーシップをとって人を導くことを通して本来の役割を遂げる男性と、男性がその働きを正しく実践していくことが出来るために助けてとして働く事によって、ふさわしく用いられる女性という関係を、ここで「かしら」という単語を使って表現していると見ることが出来ると思います。
そして10節の前半には「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。」とあるように、ここではそれを「権威」という表現で説明しています。ですから女性がかぶり物をするということは、創造の御業の秩序の中で神様が設定された役割の違いを認識して、その神様が与えられた「権威」に従う者であるということを、その行為によって証ししているというものだということです。
【私たちの実践すべき事】
というのが、女性に対してかぶり物をするようにとパウロがすすめている理由であります。ということは、かぶり物をかぶってさえいれば、それで良いのかというと、そうではないことが分かるでしょう。どんな素敵なベールを頭に乗せていようとも、神様の創造の御業を心に留めることもなく、神様が立てた権威に従うことを無視して、たち振る舞っているとすれば、それはかぶり物が勧められている本当の理由を心得ていないという事にななってしまいます。逆に、かぶり物をしていなかったとしても、神を恐れ、神様によって作られた創造の御業の秩序を覚え、それによって立てられた権威に従うことを心がけて行動しているのであれば、それこそがパウロによって勧められている「かぶり物」の本質を実践しているという事が言えるでしょう。
特に現代の日本における、文化的なことを考えると、女性がショートヘアーをしていても、男性が髪の毛を伸ばしていても、それ自体で否定的な評価をされることはありませんし、売春婦が髪の毛を剃っているということもありません。だから、私たちはあえて礼拝で女性がかぶり物をすることを求める必要もなく、このみことばの勧めをそのまま適用されることはないと判断出来ると思います。逆に礼拝では女性はかぶり物をするようにという規則を作ったとしたらどうでしょうか。かぶってさえいればそれでよくて、その意味の本質的なことを見失っていたとしたら、それ自体が問題となり得るでしょう。
旧約聖書から一つ例を紹介すると、第1サムエル15章22、23節でサムエルがサウル王に次のように語っております。「【主】は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」 これは、当時祭司しか捧げてはいけなかった、動物のいけにえを、当時王であったサウルが、捧げてしまったということを叱責しているものです。全焼のいけにえを捧げるということ自体は悪いことではないでしょう。しかしサウルは自分の立場を理解しないで、自分の分を越えていけにえを捧げてしまったことで、彼の王位は剥奪されることになってしまいました。どんなに動物のいけにえや雄羊の脂肪を捧げたとしても、神様に聞き従わず、神様のみことばに耳を傾けていないとすれば、実はそれ自体が罪であるということになってしまいます。具体的な礼拝行為が伴っていなくても、その行為が意味している本質的な事柄にとどまって、それぞれの文化の中で、ふさわしい形でそれが実践されていくのであれば、それこそが神様に聞き従っていること、神様のみことばに耳を傾けているということであって、神様は私たちがそのような歩みをすることを望んでおられるということであります。
【聖書解釈】
本日の中心聖句は詩篇119篇18節「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」とさせていただきました。聖書に書かれている禁止事項や命令などをそのまま文字通り捉えて、実践していけばそれでよいのかというと、それは意味も分からずかぶり物さえしていればよいという結論になってしまう危険性があります。ここでは「あなたのみおしえのうちにある奇しいこと」という表現がされておりますが、それが聖書のみことばによって神様が私たちに教え諭そうとしておられることを指していると言えるでしょう。
律法の字面だけに注目して、それを行うことにのみ力を注いでいたのはイエス様の時代の律法学者、パリサイ人です。しかし、私たちも時として似たような事をしてしまっているかもしれません。私たちが目を留めるべきは、聖書のみことばであり、皆さんそれを実践しておられると思いますが、聖書のみことばによって神様が私たちに教えようとしている本質的な部分に目が向けられているでしょうか。それを汲み取るために、正しい聖書の読み方を実践しているでしょうか。
第二ペテロ3章16節に次のようなみことばがあります。「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」これはパウロの書いた手紙について言及しているのですが、特に後半部分に注目したいと思います。聖書やパウロの手紙の曲解はその人自身に滅びをもたらすということが言われています。ではどのような解釈が「曲解」となるのかというと、同じく第二ペテロ1章20節に「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」とあります。私的解釈が滅びをもたらすのです。では私的解釈とは何かというと「自分はそう思う」とか「そう感じる」ということを聖書の解釈の結論としてしまうことです。人間ですから誤った理解をしてしまうことはあるでしょうが、それが正しいのかどうかということについては客観的な視点で評価する必要があります。導き出された結論に対して明確な根拠がなければ、それは私的解釈である可能性は否定できません。
ではどのような解釈の仕方が正しいのかというと、著者がどのような意図を持ってその文章を書いたのかということと、それを受け取った人がその表現をどのように捉えたのかということに基づいた解釈です。しかし、今日見ているコリント人への手紙の場合、これを書いたパウロに直接確認したり、当時この手紙を受け取って読んだコリント教会の人に話を聞くことができるかというと、それは無理であります。
では、どうすれば良いのかというと、著者の意図を汲み取るために、話の流れや文脈、前後関係を確認する事です。それを無視して聖書の一部分のみを引っ張り出して、そこに書かれている単語だけから、あれこれ考えていくことで著者の意図していない違った意味が導き出されてしまうかもしれませんし、それが私的解釈であります。また、著者は誰に読んでもらうかを意識した上で自分も読み手も共に当然のこととして理解している事についてはあえて説明することなく、書き記している事があります。例えば「パリサイ人」という単語が福音書の中に繰り返し出てきておりますが、彼らがどのような人物なのか、聖書記者は明確な説明をしておりません。それは著者も読み手も知っていてて当然と判断したからでしょう。しかし、イスラエルから9000kmも離れて、2000年の時間的隔たりのある現代の日本に暮らしている私たちにとっては、逆に知らなくて当然のことがあるのです。そして、そのような事柄は自然と理解できるようになるのではなく、学ばなくては決して知ることが出来ない事であります。そのために聖書の解説本や注解書、辞典、ガイドブックなどを用いるのは有効でしょう。または、インターネット上で色々なことも調べることも出来ますが、この場合はちょっと注意が必要です。それは必ずしも真実な情報のみが提供されているとは限らないからです。情報化社会の現代では、だれもが簡単に情報発信をすることができるようになっております。本人には悪意がなくても、しっかりとした推敲無しに発信された情報には誤りも含まれている可能性がありますので、鵜呑みにしてしまってはいけません。その情報が真実であることの裏付けがされて、初めて信頼できるものと言えるでしょう。
ただ、そのような注解書やインターネットなどを用いなくては、絶対に正しい解釈が出来ないかというと、必ずしもそうとは言えません。第2テモテ3章16節には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。ここには聖書の著者として「神の霊感」と表現されておりますが、聖霊なる神様のことです。神様がパウロなどの人間の著者をもちいて、聖書を書き記してくださったということです。そして、第1コリント2章14節で「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」と言われているように、神の御霊に属する事柄である聖書は御霊によってわきまえるものであるということが宣言されています。そして第1ヨハネ2章27節には「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、‐‐その教えは真理であって偽りではありません‐‐また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」とありますが、 ここで言う「そそぎの油」が聖霊の事であります。ですからイエス・キリストを救い主として信じ受け入れた人たちには聖霊が注がれているのです。このお方の働き故に、私たちが聖書のみことばによって真理を知ることができるようにされてくるのです。
また、先ほど注解書やガイドブックについても触れましたが、それを用いたとしても、結局はその背後に、聖霊なる神様の働きがなされた上で、そのような参考書から真理がしめされていくということになろうかと思います。ですから、聖書の正しい解釈については、それが私たちにもたらされるのは、その手段として何を用いたとしても、やはり神様の力によることであります。逆に優れた注解書を用いたとしても、神様の働きがなければ、正しい理解に至ることはないのかもしれません。
今年度の豊明希望チャペルの年間目標として「神の力に信頼する」という事をあげさせていただいておりますが、聖書を理解し、そこから教えられる真理を日常生活に適用して実践していくということの全てが、実は神様の御業であるという事になると思いますので、神様を信じる信仰と、その御業に信頼をもって、真理にとどまった信仰生活を送る事で、神様の栄光を現し続ける私たちであることを心から願うものであります。