第一コリント 5章1〜13節 さばくことのすすめ
【序論】
コリント人への手紙第一からの学びがつづけられていますが、先週で4章が終わりました。内容としても分派についての対応が一区切りして、今日から若干内容が変わってきます。とはいえ、当時のコリント教会の問題に対する対応という点では変わっておりませんが、その具体的な問題について、5章から新しいテーマが取り上げられております。
【不品行】
ということで早速、今日の箇所を見てまいりますが、まず5章1節にあるのが、パウロが耳にした当時のコリント教会の状況です。「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。」ということですが「不品行」の日本語の意味は、小学館の国語大辞典によると「品行が悪いこと、身持ちが良くない事」とありました。では「品行」とは何かというと「道徳的基準からみた行い、振る舞い」ということですので、不品行とは道徳的によくない行動ということになるでしょうか。しかし、聖書のこの個所で「不品行」と訳されている「ポルネイア」というギリシャ語は「不道徳な性関係」を意味するものですので、もっと範囲としては狭いものを表している表現です。実際にここで指摘されているのは「父の妻を妻にしている」ということですので、自分の母親かもしくは義理の母との性的な肉体関係が行われているということについての指摘です。
言うなれば近親相姦ということですが、このことについて旧約聖書の規定は、レビ記18章6から8節に次のようにあります。「あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは【主】である。父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。」このみことばを根拠に、父の妻との肉体関係は旧約聖書の律法違反であるということが出来ます。また、同じくレビ記20章11節には「人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」とまでありますので、旧約聖書の律法によると、これは死刑に値する重い罪であるということがわかります。
近親相姦については国毎に様々な基準があるようですが、世界的に見ても一般的にはタブー視されています。私達の文化では近親相姦が即「犯罪」という事にはならないようですが、近親者との結婚は三親等以内の結婚は認められていません。ですから父の妻を妻にするということはあり得ないわけですが、それが当時のコリント教会の中に起きていたというのです。しかも、2節によると「それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。」とあるように、彼らの中でその事を問題視してはいなかったということのようです。コリント教会の人たちが、先ほど見たレビ記の規定を知らなかったわけではないでしょう。恐らく何らかの事情があって彼らの問題を指摘することが出来なかったか、見て見ぬ振りをして容認していたようなことだったのではないかと考えられます。
【パウロの対応】
そのような彼らの態度に対して、パウロは3節で次のように語っています。「私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。」パウロがコリント人への手紙を書いたのは、エペソだったと言われています。直線距離でも約400kmありますが、間がエーゲ海なので、船で移動するか、陸路を通れば1500km以上の移動距離になります。ですから物理的には遠く離れているわけですが、パウロの意識としてはそこにいるのと同じ感覚でいるというのです。そして「父の妻を妻としている」人のことを「イエスの御名によってすでにさばきました」というのです。
しかし、こうやって言うと、4章前半でパウロが自分で自分をさばくことをしない(3)とか、先走ったさばきをしてはいけない(5)という事が語られていたこととの関係で疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。今までそのように語ってきたにもかかわらず、ここでパウロはコリント教会で不品行の罪を犯している人をさばいているというのはどういうことなのでしょうか。
実は4章前半の「さばく」と今日の箇所で登場している「さばく」はギリシャ語の単語が違うのです。4章でさばいてはいけない、主がさばくと言われていた箇所で使われているのは「アナクリノー」という単語でした。その意味は「わきまえる、取り調べる、尋問する」というもので、ニュアンス的には「徹底的に揺すってふるいにかける。訴訟手続きの際のように注意深く正確に調査する」という感覚です。それは、最終的な結論としての判決ということではなく、判決の出される前段階の評価、取り調べを意味します。それに対して今日の箇所で用いられている単語は「クリノー」というギリシャ語で、その意味は「訴える、判断する、判決を下す、治める、…と考える、決定する、裁判にかける、決心する、左右する、批評する、分離する、区別する、分け隔てる、選ぶ、選りすぐる、評価する、解釈する、言い争う、統治する」など、大変多くの意味がある単語ですので文脈からその細かな意味合いを考察して行かなくてはなりません。またこの「クリノー」が勧められている箇所としては、ヨハネの福音書7章24節のイエス様のことばで「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と言われている箇所で用いられていますので「クリノー」のさばきを実行するのは正しいことだと言えます。ということは、評価や判断をするためにあれこれ調べ上げる「アナクリノー」はすべきではないけれど、問題点が明確であるなら、それについての正しい立場を明確にする「クリノー」はすべき事だと見ることが出来ます。そして、今回の不品行が旧約聖書の律法違反であることは明確であるため、パウロはその人のことをさばいた、クリノーしたということでしょう。また、この「クリノー」すべきという事は今日の後半、12、13節にも外部の人をさばくのは神様で、コリント教会の人たちは教会の内部の人たちに対するさばきをするようにというところでも用いられている単語です。
【サタンに引き渡す】
そして、パウロはさばいた結果どうしたのかというと、4節と5節の前半に「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。」と言われています。「サタンに引き渡す」という表現にどきっとしますが、具体的な事としては「教会からの除名」ということのようです。では、どうしてそれが「サタンに引き渡した」という表現になるのかというと、エペソ6章11、12節を見ると悪魔のことを「この暗やみの世界の支配者」とあり、第1ヨハネ5章19節にも「世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」と言われています。ですから、教会の交わりの外は悪い物であるところのサタン、悪魔の支配の元にあるから、教会からの除名は、自動的にサタンの支配の領域に入ってしまうという事でしょう。しかし、その目的は何かというと、5節後半に「それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」とあります。サタンに引き渡されるという表現により、その人がのろわれ、わざわいが訪れるかのような印象があるかも知れませんが、その目的は神様に立ち返ること、悔い改めて正しい道に戻ってくることだというのです。「肉が滅ぼされる」という表現がありますが「肉」という表現は「人間の罪の性質」を表していると捉えることができますので、罪に対する処理がされることをこのように表現されているということでしょう。そのようにして教会からの除名、サタンに引き渡されることで、その人には実際に何らかの困難な状況に遭遇することになるかもしれませんが、その苦しみ自体が目的なのではなく、自分自身の罪や問題に気付いて解決が与えられるために、そのきっかけとして、一時的にそのような状況におかれるというように捉えられるものです。
【パン種】
そして、6節前半には「あなたがたの高慢は、よくないことです。」とありますが、4章ではパウロがコリント教会の人たちのすがたを「王様」と表現していたり、今日の箇所でも5章2節の「あなたがたは誇り高ぶっています。」といわれている事との関係でこう表現されていると見ることが出来るでしょう。そして、6節の後半から8節までこの彼らの高慢を「パン種」に例えて話を展開しております。「あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」聖書の中で「パン種」が象徴的に用いられるときには、例外なくすべて「人間の罪」を意味しています。どうしてそのようなたとえがなされているのかというと、小麦粉のかたまりに対してほんのちょっとでもパン種を入れたのなら、それが小麦粉全体に影響を与え、発酵することでパンを膨らませるようになるということから、人間の持つ罪が、その人の人格全体に影響を与えていくということで「パン種」と表現しているようです。そして、ここで「パン種」と表現されているのは「高慢」についてであり、それを取り除くようにという勧めは、4章でも既に語られていた事でありました。
ただ、ここでは7節に「あなたがたはパン種のないものだからです。」とあります。ということは既にパン種がなくなっている、罪がなくなっているのではないかと考えられるでしょうか。2週前の礼拝で、聖霊のバプテスマと聖霊の満たしについて学びました。その時に私たちが聖霊に満たされることを妨げているのは「肉の思い」であるところの罪だということを確認いたしました。そして、それは信仰を持って救われたといっても、罪は犯してしまうが、それを認め、悔い改めることで処理され、聖霊に満たされるようになるということです。そして、それが今日の箇所で「パン種を取り除く」という表現で言われている事と見ることが出来るでしょう。また「パン種がないもの」と言われているのは、神様が私達をそのように見てくれているのであって、それがもたらされたのがイエス・キリストの十字架ゆえであることについて、7節の最後で「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」と言われているのであります。ですからパン種が放置されているというのは、信仰者としてふさわしい状況ではないということでしょう。
【不品行な者への対応】
そして、今日の箇所の最後の部分、9節以降には不品行な者たちに対する具体的な対応についてのパウロの考え方が述べられています。9節に「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。」とありますが、この「前の手紙」は残念ながら、紛失されているので、何が書かれていたのか知ることはできません。しかし、この手紙の中に「不品行な者たちと交際しないように」という内容があったようです。それをコリント教会の人たちは、この世の罪深い人々との交際を禁じているものだと受けとめたようです。ですから10節で「それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。」とパウロは間違った理解を訂正しております。神を信じることなく、聖書の勧めも知らない人が聖書のみことばに従って生活することはあり得ないことでしょう。そうであるなら、聖書で禁止されている事柄であっても、その人たちには許容されることもあり得るのです。
実際に日本文化の中では結婚前に妊娠することについて何も問題を感じていない方が多くいらっしゃるようですが、これは不品行です。結婚関係にない男女の性的な肉体関係がビジネスとして存在している現実を思うと、悲しい思いも沸いてきますが、それが神様の創造の御業の意図している本来あるべき関係ではないことを、それらの人たちは知らないでいるのです。そして、知らないからそれが良くない事だと気付かずに行っているということでしょう。ですから、信仰者としてとるべき彼らに対する態度は彼らを拒むのではなく、真理を伝えるということであるはずです。その為には彼らとの交際を避けてしまうと、神様を証しし、みことばを紹介する機会が失われることにもなりかねません。だから、パウロはこの世の不品行な人たちとの交際を禁じているのではないということでしょう。
では、この「不品行な者たちと交際しないように」との勧めが意図している事は何だったのかというと、11節の「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」と言われています。ここで「兄弟と呼ばれる者」とあるのは、信仰者を指しているものですので、彼らは聖書のみことばを知っているはずの人です。何が正しくて神に喜ばれ、何を拒むように教えられているのかについての知識があるにもかかわらず、それが自らの行動に反映されていないのであれば、その人の神様に対する態度が何かおかしいという事になるでしょう。ですから、矯正される必要があるのです。そして、その矯正される手段が、ここでは除名でありますが、その目的は排除ではなく、罪が処理される事による回復であります。
このように、知っていながらそれを実践しないのと、知らなかったことによってそれを実践しないことについて聖書は明確に区別しております。イエス様も、ルカの福音書12章48節で「しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」と語っておられますし、パウロも第1テモテ1章13節で「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」と語っている通りです。
【結論】
そして、今日の箇所の最後12、13節に「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」とあります。先ほども触れたように、ここで「さばく」と訳されているのは「クリノー」です。教会外の人たちが何をしようとも、それをさばくのは教会ではなく神様であることが言われております。そして、教会のすべき事は教会外の問題や罪ではなく、教会内の問題についての正しい対処という事になるでしょう。
【適用】
というのが、今日の箇所についての内容ですが。いつものように最後に全体を振り返って、私たちにとっての適用を一緒に考えてみたいと思います。
まず不品行は聖書が警告している内容であるということは言わずもがなと思います。結婚関係にない男女の肉体関係は日本文化では許容されているようですが、聖書はそうではありません。皆がそうしているから、そう考えているからと言って正しいわけではないのです。ローマ12章2節に「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とある通りです。結婚することによって初めて、男女は一つの夫婦となって家族が築き上げられるというのが、神様が人間を創造された御業の意図していることであります。
次に「サタンに引き渡す」という表現について整理しておきましょう。教会からの除名を意味する表現ですが、それはこの世がサタンの支配の影響下にあるということから、そのような表現になっております。これは教会戒規が施行されているということですが、これについてのステップはマタイの福音書18章に記されています。時間の都合もあるので開いて確認まではいたしませんが、まずは一対一で、それでも聞き入れなければ2、3人で、それでも認めないのであれば教会として対応し、それでもだめなときに初めて除名ということになります。ただこの目的も、排除することではなく、悔い改めて真理に立ち返るということだということを戒規する側もされる側も共通の認識を持つ必要があるでしょう。
最後に今日の箇所ではさばくことが勧められていました。4章で禁止されていたさばきはアナクリノーという単語で、あれこれ細かく調べ上げるという行為でした。それは禁止されていたわけですが、今日の箇所でさばくことが勧められているということは、そのようなステップを通さなくても、問題が明確である場合に限って、さばくことが許可されていると考えられます。また、明確な問題であったとしても教会外の問題について、私達はそれに対してどうこうする権威を持っている訳ではないことも覚える必要があるでしょう。今日の箇所の最後13節にも「外部の人たちは、神がおさばきになります」とあるとおりで、それは神様の範疇です。私たちが心かけるべき事は教会内部における問題であり、ある個人が聖書で語られている真理に対して違反していることが明らかであるときに限って、聖書が示している正しいステップで教会戒規を施行するということになるでしょう。
とはいえ一番よいのは、そのような自体が起きないことであります。誰ひとり一時的でもサタンに引き渡されることがないように、お一人お一人が右にも左にもそれることなく、神様の真理にとどまりながら、まっすぐに主の御心を歩むことで神様の栄光が表される信仰生活をおくるものであるように。