第一コリント 4章6〜13節 高慢と謙遜
【序論】
年度が代わった今年の4月から、豊明希望チャペルの礼拝式では、コリント人への手紙第一を初めから順番に読み進める形で、聖書宣教を行ってまいりました。ほぼ毎回触れていることですが、この手紙がパウロのところに入った情報によって、コリント教会の問題解決のためにしたためた手紙であります。これまでの内容としては、コリント教会にあった分派についてで、具体的にはパウロにつくものやアポロにつくものがいて、それぞれそうではない人たちの教えを否定していたということがあったようです。そして、これまでの手紙の内容からは、すべては神様が信仰者のために備えて下さっていたもので、人間は神のしもべ、協力者として、注目されるべきは神様だけであるということが語られていました。
そして、今日の箇所では、コリント教会の人たちに対する皮肉のような表現で、彼らが自分自身の問題に気付いて、正しい視点に立ち返ることが出来るように促している内容になっています。
【6節:パウロの主張】
ということで、いつものように聖書箇所を少しずつ読み進める形で聖書宣教を行ってまいりますが、6節の前半に「さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。」とあります。実際にこれまでのパウロの手紙の内容では3章5,6節に「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」とあったり、22節には「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。」と、パウロとアポロの名前を取り上げて、話を展開していっておりましたので、その事を指して言っているととれます。
また、6節後半には『それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。』とありますが、この「書かれている事を越えない」とは、聖書に記されている教えや定め以上の権威を主張することの無いようにということであり、聖書の教えの元に自分自身をおいて、それに従うということが信仰者としてのふさわしい態度であるということでしょう。実際にこれまでパウロは1章19、31節、2章9節、3章19、20節と繰り返し旧約聖書を引用して、聖書のみことばによってコリント教会の人たちを教え諭そうとしておりました。そしてこれらには、ほぼ同じような主張がされており、その内容は「人間の知恵や賢さは実はおろかである」ことと「神の力、御業の卓越性」ということでした。
そして、ここでは「一方にくみし、他方に反対して高慢にならないため」と言われております。これまでの手紙の内容は分派について語られておりました。まさにそれは「一方にくみし、他方に反対」しているということでしょう。そして、それが「高慢である」というというのですが、これはコリント教会の人たちが「こっちが正しくて、あっちが間違っている」というような判断をしているということでしょう。先週の礼拝で「アナクリノー」というギリシャ語が登場しました。その意味は「わきまえる、取り調べる、尋問する」というもので、アナクリノーは人間がすることではなく、神様が行うことであるというのが、4章3〜5節で語られていた内容です。そして、今日の6節で「一方にくみし、他方に反対」というのが、まさにアナクリノーの行為でありましょうから、そうであれば本来なら神様がされるはずのことを、人間が行っているということから「高慢」というように言うことができるでしょう。
【7節:賜物についての誤解】
そして、7節では「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」とあります。1章7節の前半には「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、」とあったように、コリント教会はあらゆる賜物に恵まれていたという事が言えます。具体的なこととしては1章5節に「あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされた」とありますので「すべてにおいて」ではありますが、特に「ことば」や「知識」における賜物が顕著だったという事でしょう。それが元で、分派を起こしていたというのは、彼らが自分たちの知恵で判断して、優劣を評価したり、こっちが正しくてあっちが間違っている…みたいな判断をしていたということなのでしょう。しかし「賜物」という表現からも分かるように、彼らにどんな知恵があったとしても、贈り物、プレゼント、ギフトであります。元々彼らのものだったのではなく、もらったものだから賜物と表現されているのでしょう。しかし、コリント教会の人たちはそのような意識は希薄だったようです。おそらく、そのような知恵を、自分自身のものであるかのように誇っていたのでしょう。それがこの7節で言われていることで、これに対するパウロの忠告は「何か、もらったものでないものがあるのですか。」と、全部神様からもらったものなのではないかと、指摘しているのです。
【8節:皮肉】
そして、8節前半には「あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。」とあります。コリント教会の人たちは満ち足りていて、豊かで、王様になっているのでしょうか。そうではないですね。これは彼らの言動がそのように見受けられるという皮肉で言っていると捉えることができます。8節のこのあとには「いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。」とありますので、実際には彼らが王様ではなかったのだということが分かります。そして、8節の最後には「そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。」とありますが、パウロは王様になりたかったのでしょうか。これも、そうではないでしょう。直前に自分自身のことを「神のしもべ、協力者、奥義の管理者」と言っておりますが、それは否定的にではなく、神様との関係を積極的に表現しているものと見ることが出来ると思いますので、王様になりたかったということでこのような表現をしているのではなく、彼らが王様になれたのなら、自分をもそのような立場に立つことも可能であるということと、そうではないから、やはり彼らは王様としてふさわしいものでは無いということをこのように表現しているのでしょう。
【9節:使徒たち】
しかし、パウロの主張は、このような事にとどまらず9節以降で、もっとひどい表現をしているのです。まず9節に「私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。」とあります。ここに「行列のしんがり」という表現がありますが、これは直訳すると「最後のもの、最も低いもの」という意味です。それが「死罪に決まった者」という表現とあわせて考えると、二通りの解釈ができるようです。新改訳聖書で採用しているのは「死罪に決まった…行列のしんがり」ですので、これは戦争の後、捕まえた敵国の捕虜を凱旋行列の最後に見せ物として引き連れるということを行っていたことから、その意味で捉えているようです。もう一つの可能性としては、闘技場の見せ物の最後に獣と戦わせられる死刑囚に例えられているというものです。どちらでとったとしても結局は殺されるということですので、意味としては大きな違いはないでしょう。
ここでパウロが言いたいのは、自分はそのような者でとても「王様」ではないということで、パウロがそうであるのなら、コリント教会の人たちがあたかも自分が王様であるかのようなの思い込みも、ふさわしくないということでしょう。
【10〜13節:卑下するパウロ】
しかし、パウロの主張はそこで終わりません。10節でコリント教会の人と自分たちを比較して次のように語っています。「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。」ここでコリント教会の人たちの事を、「賢い、強い、栄誉を持っている」と言っていますが、これも先ほどの「王様になっている」という表現同様、皮肉でしょう。実際に賢く、強く、栄誉を持っているというのではなく、彼らの行いがあたかもそのような人の姿に捉えられるということを表現していると考えられます。
それに対して、パウロは自分たちのことを「愚か、弱い、卑しめられている」と言っています。それどころか11節では「飢え、渇き、着るもの無し、虐待、落ち着く先無し」と表現しています。これ以上悪いことはないのではないかとも言えるほどの、悲惨な項目のオンパレードでしょう。しかしこの羅列を見て何か気付くことはないでしょうか。それはイエス様が人々からこここであげられているような仕打ちを受けたということです。
「おろか」というのは「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)とばかにされています。「弱く、卑しめられている」というのは、イエス様が十字架につけられたという事自体がそれを物語っているでしょう。「飢え」としては、40日間の荒野の断食を思い起こします。「渇き」は十字架上でイエス様が「わたしは渇く」とおっしゃいました(ヨハネ19:28)。「着るものがない」というのも、十字架上でイエス様は裸でありました。「虐待」については、十字架につけられる前のイエス様はローマ兵からつばきされ、平手で打たれています(マタイ26:67、マルコ14:65)。最後「落ち着く先がない」というのは、イエス様が自ら「人の子には枕するところもありません」とおっしゃっています(マタイ8:20、ルカ9:58)。このことをある注解書では「これは、キリスト者の存在はキリストに結びつくときにのみ意味があるとの根本的課題にかかわっている。パウロは自らの具体的生き方を描くことによって、キリストの死にあずかって現実に生き、戦う教会の本来あるべき姿を鋭く指摘している。」と表現しておりました。それをどれほどパウロが意識していたのかはわかりませんが、実際に彼はこのような体験をしていたのでしょう。そして、それらはイエス様のしもべとして、イエス様が通られたのと同じような体験をその身に受けたということが表されているものだと考える事が出来るでしょう。
続く12節でも、パウロの苦労話は続きます。前半に「私たちは苦労して自分の手で働いています。」とありますが、実際にパウロは天幕作りの働きをしておりました。けっこうな肉体労働だったはずです。また、労働はヘブル文化では価値あるものとみなされていたが、ギリシャ社会では軽視されていました。この手紙はコリント教会宛ですから、やはり否定的にとらえられていたことでしょう。12節後半には「はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、」とありますが、マタイの福音書5章44節でイエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と勧めておりますので、それを受けてパウロが実践していたということでしょう。またパウロ自身もローマ人への手紙12章14節で「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」と語っております。 また十字架上でのイエス様の姿も、ルカの福音書23章34節で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と自分を苦しめ、着物を久地で分けているローマ兵たちのためにとりなしの祈りを捧げているのです。
そして、13節には前半に「ののしられるときには、慰めのことばをかけます。」とありますが、ローマ人への手紙12章20節で「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。」と語っていることを自ら実践しているということでしょう。そして、聖書箇所としては最後の13節後半で「今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」とあります。「ちり」と「かす」とは共に汚れたものを拭ったときに落ちる、ごみとかくずのことで、何の価値もなく、躊躇無く捨てられるものということでしょう。これについて、イエス様の事を「ちり」とか「かす」と表現している箇所はありませんが、捨てられるということで考えるとマタイの福音書21章42節でイエスは旧約聖書を引用して「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」と語っておられます。それはご自分がユダヤ人から捨てられたことを指して、表現しているものと捉えられますので、イエス様がちりやかすのように捨てられたということも言えるでしょう。
また、今日の箇所でこれらの表現はコリント教会の人たちの態度と対比して語られていたものとしてみると、コリント教会の人たちの言動を王様に例えていたのに対して、パウロたちは「ちり、かす」のように価値がないようなものだということで、王様とは対極にあるものということを表現していると考える事が出来ます。
【適用・結論】
というのが、今日の箇所についての内容ですが。いつものように最後に全体を振り返って、私たちにとっての適用を一緒に考えてみたいと思います。
まず6節に「書かれていることを越えない」という表現がありました。その意味は、神のことば聖書の権威の元に自分自身を置くということでしょう。聖書が語っていないことを真理であるかのような強調をするとか、聖書が語っている事であるにもかかわらず、それを無視するということは、自分の考えを聖書が主張していることよりも上に置くという事になってしまいます。また聖書が神様のことばであるということから考えると、聖書以上の権威を自分自身におこうとする行為は、高慢な行為という事になるでしょう。そして、6節の後半では「一方にくみし、他方に反対」ということを高慢だと言っております。これは本来神様のするべきさばきを人間がしているという事で「高慢」ということになるのです。
私達はつい物事の善し悪しを自分の視点で判断しがちです。もちろん当たっている場合もあるでしょうが、かならずしもそれが正しいとは限りません。かえって、私達の考え方には偏りがあり、正確な判断をするのは困難な場合があります。またそうでありながらも自分の間違いを認めるのも困難なのです。ですから、私達は間違ったさばきをしないために、正しいさばきをするためにどうしたら良いのかというよりも、先週の箇所にあったように、先走ったさばきをしないということが、みことばの勧めに対する正しい応答だと思います。
また、コリント教会はあらゆる賜物に長けている教会でした。賜物は神様から送られていたものですが、その人たちの中にその神様からの贈り物を、あたかも元々自分のものであったかのような錯覚を持ってそれを誇っていた人たちがいたようです。
7節に「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。」とあるように、私達にとっても、私達の所有しているもののすべては元々自分のものでは無かったはずです。この世界に存在しているあらゆるものの元をたどれば、すべて神様が私たちのために提供して下さったものだということができるはずです。ですから、このようなものをもって自分が誇るのではなく、それを作り、そなえ、あたえて下さった神様を誇り、神様の栄光が証しされるように用いていくというのが、本来の賜物に対する態度であり、謙遜なものの姿という事が出来るでしょう。
今日の中心聖句は箴言18章12節「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とさせていただきました。今日の箇所でパウロはコリント教会の人たちの高慢な態度を指摘し、使徒たちの謙遜さを証ししてくれています。そしてパウロが自分自身の姿として紹介していた「愚かで、弱く、卑しめられており、飢えて、渇いて、着るものが無く、虐待され、落ち着く先が無い」ということは、イエス様の姿としても表現されているものでした。他の誰よりも謙遜にへりくだって下さったお方がイエス・キリストです。
今日この後、聖餐式を執り行います。イエス・キリストの謙遜、へりくだりが最もはっきりと表されている出来事であるところの十字架の犠牲を覚えるための儀式です。特に今日は、十字架上でのイエス様が人々からののしられてもののしり返すことをせず、かえって自分を迫害し、苦しめている人たちのためにとりなし祈られたすがたを思い起こしつつ、パンと杯にあずかってまいりましょう。そして、私達もイエス様がもっておられた寛容と忍耐をもってまわりの方々と接することが出来るように、一人一人の上に神様の御霊が働かれることを願いつつ聖書宣教を閉じさせていただきます。