マタイ18:21〜35 赦すことと赦されたこと

【序】
 先週のメッセージでタラントのたとえ話を見ていきました。タラントが実は随分大金だということが記憶に新しいことだと思います。タラントのたとえ話として有名なのは先週のマタイの福音書25章ですが、マタイの福音書にはその他にもう一箇所、イエス様の語ったたとえ話のなかでこの「タラント」が出てくるものがあります。それが今日のメッセージの聖書箇所18章でして、先週タラントがどのような量であるのか解ったところで、それが忘れられる前にお話ししておこうと思い、この箇所を選ばせていただきました。

【たとえ話の背景】
 先週のタラントは1桁でしたが、本日のメッセージにはその一万倍の「1万タラント」という額が登場します。1タラントでも大金ですが、今日の話しはそのもっと大きな額の話しになります。この話しをイエス様がされる前にペテロがイエス様に一つの質問をします。それが21節の「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」というものです。当時のユダヤ教のラビ達は「3度までなら赦すべきだ」という理解でした。それに対してペテロが「7度」と言っているのは、それよりももっと寛容を表すことというのが言いたかったことでしょう。このペテロが7倍と語った根拠は、ルカの福音書17章4節にあるイエス様のことばに見られます。「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とイエス様のことばが聖書に残っております。しかしこのペテロの質問に対するイエス様の答えは22節で「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」というものでした。7x70で490回まで赦して491回目からはやっと赦さなくても良いということでしょうか? だとしたら、その人が自分に対して何回悪いことをしたのか数えなくてはならなくなります。まさかそんなことやってられませんし、この意味はそうではありません。聖書中に7という数字が出てきたら、それは完全数と呼ばれるもので、その理解によるのなら、これは「何回までという回数に拘ることなく、赦してあげなさい」というメッセージが語られているということです。

【たとえ話】
 この会話を受けてイエス様が23節から天の御国に対するたとえ話を語っています。登場人物は王様とその王様に1万タラントの借りのあるしもべです。先週、1タラントがどういう額であるのか確認しました。今日の箇所にも脚注に出ておりますが、1タラントは6000デナリで、1デナリは一日分の労働賃金です。1日分の労働賃金をおおよそ1万円と考えると1タラントは6000万円になります。ですから1万タラントの場合それを1万倍すると6000億円という額になります。何をどうしたらこんなに大金を負債を負うことができるのか見当もつきません。そして、このしもべの主人は彼に「自分も妻子も持ち物全部も売って返済するよう」に命じました。やはり人に借りたものは返さなくてはならないものでしょう。とはいえこの主人の要求をそのまま実践することを躊躇したこのしもべは、主人に『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と願っています。しかし、どれほどの猶予を与えたら全部を返すことができるのでしょうか。とても自力では返すことのできないであろう額が1万タラントでしょう。この願いを聞いて主人は「かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」というのです。なんとあわれみ深いご主人ではないでしょうか。彼はもう6000億円、1万タラントを返す必要が無くなったのです。
 しかし、この後のこのしもべの行動がいけませんでした。彼には自分から100デナリの借金をしていた友人がいたのです。さきほど1万タラントの計算をするとき、1デナリが1日分の労働賃金で約1万円と見なしましたが、それを元に換算すると100デナリは100万円ということになり、それなりに大きな額です。この男はその100万円の貸しのあるものを捕まえて、首を絞め「借金を返せ」と迫っています。しかしこの借りのある男にそれほどの手持ちはなかったようで、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んでいます。しかし彼は承知することなく、彼が借金を返すまで牢に投げ入れた、というのです。彼は何が何でも100万円を返して欲しかったのでしょう。確かに100万円の借金を帳消しにしてあげるということは簡単なことではありません。しかし彼は100万円どころか6000億円の借金を帳消しにされたばかりだったのです。
 次に彼の仲間が登場します。彼らはその男が主人から6000億円の借金がゆるされたのを知っていたでしょう。しかし、その彼が100万円の貸しのある友人のことをゆるさずに、牢屋に投げ入れたということを見て心を痛めました。彼らは主人に、その一部始終を報告したところ、主人は彼を怒って呼びつけ、彼が借金を返すまで牢屋に入れられてしまったということです。ここに「借金を返すまで」とありますが、彼の借金は6000億円ですから、これを返済できる可能性はないでしょう。一生涯牢屋で過ごさなくてはならないという宣言が下されたというように理解できます。
 そうして最後にイエス様は次のように語って締めくくります。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」このたとえ話しは、話しの文脈から見ると、ペテロが兄弟を何度までゆるすべきかと言う問いをイエス様にしたことに対して、何度でもゆるしなさいと言われたことについての解説と見なすことができますので、人を赦さなかったら自分も赦されない、自分が沢山のものを赦されたのだから他人にも寛容を表しなさい、という話しだと理解できます。

【考察】
 そして、このたとえ話を聞くと、たいていの人は1万タラントの借りがあった人に対して「なんてひどい男だ」と感じるでしょう。6000億円の借金を赦してもらったのなら、100万円の借金ぐらい赦してあげるべきだと思われるはずです。なにしろ自分が赦された額の60万分の1の借金を赦せていないのです。比較にもならない額でしょう。
 では、どうして彼はその100万円を赦すことができなかったのでしょうか。彼は自分が6000億円の借金を赦されたことを忘れてしまったのでしょうか。または彼が免除された借金と彼が友人に貸している事とは関係のないことと見なしていたのかもしれません。いくつかの理由が考えられますが、ともかく彼は自分が赦されたのにもかかわらず、他人を赦すことができなかったのです。
 そして、今日のたとえ話は罪を赦すかどうかということから、語られたものなので、1万タラントの借金として例えられているのは神様に対するその人自身の罪のことでしょう。そして100デナリとして例えられているのが自分に対する他人の罪だと見なすことができます。この男が1万タラントの借りを主人から赦してもらったように、私たちの神様に対する罪も全て赦されているのです。しかし私たちは他人の自分に対する罪についてどのような態度でいるでしょうか。今日のたとえで1万タラントの借金を赦してもらった男は友人の100デナリの借金を赦すことができませんでした。私たちも自分に対する他人の罪を赦すことができないのなら、この1万タラントを赦してもらったけれど、人と同じことをしているということになってしまうと理解できます。
 ところで、マタイの福音書6章の「主の祈り」の中にある祈りのことばで「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とあります。聖書は赦すことと赦されることには密接な関係があるということを語っております。私たちが罪赦されたのは、人の罪を赦したからでしょうか? そうではありません。私たちの罪が赦されたのは、イエス・キリストが私たちが自分の罪故に受けなくてはならなかった罰を代わりに負ってくださったことによります。私たちが誰かを赦すよりも先に、私たちが神様から赦されたのです。それは今から2000年前の出来事です。その私たちの罪がどれほど重いものであるのかについては1万タラントの借りのあるしもべが自分の力ではとても返すことのできない程の量とたとえられているように、私たちが自分でどうにか処理できるものではないのです。しかしそれが赦されたという事実が先にあるのです。

 さて、私たちは自分に対する他人の悪を赦すことができているでしょうか。今日のたとえ話だけ見ると、1万タラント赦されたのだから100デナリぐらい大目に見て当然と思われるかもしれません。しかし現実の自分の心の中を観察したときに、私たちは他人のよからぬ言動に対してそれを完全に赦せていない事を発見するのではないでしょうか。
 今日の箇所は「だから私たちも赦しましょう」というメッセージを送っていると理解できます。しかし「言うは易し、行うは難し」です。律法主義的な聖書解釈では「だからあなたも赦しなさい」という勧めというか戒めがなされることになるのですが、それは人間の罪深さ、弱さについての認識が不足していると思います。赦せといわれて赦せるほど事は簡単なことではありません。頭では解っていても感情が伴いません。自分に対して無礼なことをした人のことを思うとむかむかと憤りが沸いてきます。
 そうなると、どうなるかというと、マタイの福音書18章35節に「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」と言われています。「このように」とはどのようにかというと、借金を全部返すまで牢屋に入れられるのです。自分の力で支払うことができない借金ですから、牢屋から出るのは不可能です。要するに赦しを受けられなくなるということでしょう。何度も言っていますが、1万タラントの借金は私たちが天の父なる神様に対して負っている負債であるところの私たちの罪です。それが赦されないということは、私たちが救われないということになるのでしょうか。このように考えると大きな疑問がわいてきます。「それでは、誰が救われることができるのでしょう。」
 実はイエス様にこれと同じ質問をした人が存在します。今はマタイ18章を開いていますが、その一つ後19章25節にこれと同じ質問をした人が出てきます。イエス様の弟子がイエス様に対してされたものです。これは金持ちが神の国にはいることの難しさについて、話題になっている箇所でなされたものですが、この話を聞いた弟子たちの反応が「それでは、誰が救われることができるのでしょう。」といっています。要するにイエス様の弟子たちは、誰も救われることがないという印象を持ったということです。しかしそれに対するイエス様の答えが26節の「イエスは彼らをじっと見て言われた『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」ということです。
 神様にはできるのです。わたしが他人を赦すことができなくても、神様はその人を赦しています。そしてそのみこころが私たちの内に成就することによって、私たちがその人を赦すことができるようになるのです。このイエス様の宣言を信じることができるでしょうか。これを信じることができなければ他人を赦すことはできないでしょう。しかし神のことばに対する信頼を持って、この宣言を「アーメン」と言って受け入れ、全能なる神様の力を信じることによって、信仰によって主が私たちに御業を成してくださるのです。聖書は私たちにそのような真理を語り続けてくださっているのです。自分の力にたよるのではなく神様にたよるのが神を信じる者の信仰生活です。

【まとめ】
 私たちの神様に対する罪とは、今日のたとえでイエス様が語られた1万タラントほどの借金に例えられているように、自分の力でどうにか処理できるようなものではないのです。しかし、それを愛とあわれみに満ちた神様は赦してくださったのです。6000億円の借金を帳消しにされた思いはどれほどの感謝でしょうか? 金額自体が想像を絶するので、その喜びがどれほどのものなのかについてもイメージしにくいかもしれません。しかし、それほどのあわれみを私たちが受けているというのです。まずは自分の罪の大きさと、それを赦してくださった神様の愛とあわれみに対して正しい理解を持って主への賛美と感謝をささげる私たちでありたいと思います。
 そのようにして、神様から全ての罪を赦された私たちです。しかし100デナリであるところの、自分に対する他人の罪を赦すことはいかがでしょうか? 赦されたからといって、簡単に赦せるようになるわけではありません。しかし、頑張ってゆるさなくっちゃ!という視点は自分で自分の救いを達成させようとする愚かな行為になるでしょう。極端な表現を赦していただくとすれば、自分にはできないのです。自分で頑張ろうと思っておられる方がいるとしたらあきらめてください。必要なことは自分の弱さを認め、神様の前に告白することです。そしてそれを成してくださる全能の神に信頼し、すでに私たちが得た1万タラントの借金画帳消しにされたことに対する感謝と賛美をささげ、神のことばによって表されているイエス・キリストのいのちによってなされる赦しを、私たちの心にお迎えするのです。人にはできないことが神にはできるとおっしゃったイエス・キリストのことばに信頼することで、私たちが自分に対する他人の罪を赦すことができるようになるのです。自分の力ではなく神様の力によってです。そのようなプロセスを通ることによって私たちの救いが確実なものとしての救いの完成が、私たちの内側になされていくことになるのです。